アウラの慟哭5
誘うように差し出されたその躰は、ふうわりと柔らかく、花の匂いがした。
二つの影が重なっていく。明るすぎる月の光が影のステージを作り出していく。
………これは、悪夢だ。
ジルアートは抱きとめてしまったのを後悔した。顔を顰める。記憶を覆う彼女の香りは、いとも簡単に理性を掻き消そうとさえしていた。
ついさっきまで思考を支配していた、彼女の姿は霞に消えてしまったように、なくなっていた。
ただ、ただ。
「………アー、チェ」
喉の奥に張り付いたような声だった。その声に自らがいかにあっけなく追いつめられているかが知れた。声にして、ああ遅かったのか、とも思う。
ジルアートの掌は、彼女の感触を求めてより彼女に触れたがる。腰と背に触れて、ああ、と絶望と歓喜の吐息を吐いた。
(―――……… 逃げられないのか)
知れてしまった。
自分は、―――ずっとずっと、触れたかったのだ。
「………わたしの、ジーニャ」
耳元で可愛らしく囁く声が甘い。
遊びましょう、と密やかに。
ジルアートにしどけなく張り付いていた両腕は、ゆうるりと、彼の白い頬へと伸びた。
細い首が伸びて、同じ紺色をした、夜空色の瞳がぶつかる。
一つは逃げようと揺れ動き、そしてもう一つは―――
………それは合図だ。
二人だけの。
それは、反射だった。
青年は体を折り、少女のような女は応えるように首を傾けて、小さな舌を、蛇のように少し突き出す。
男はそれを慣れたように絡めとり、女の口腔に侵入する。
いつものように。
重なる。
潤い、満たされ、また奪われて。
二人は快楽の淵に足を踏み入れ、
―――……… 捕らわれた。
***
貪っても貪ってもまだ足りない。
喘ぐアジェリーチェを気に掛ける余裕もなく、ただ、呼吸のようにその唇を追い求める。
アジェリーチェは快楽に奔放だ。気持ちよさそうに口づけながら呻いては、もっとと挑発するように腰を押し付けてくる。
自覚してはいたが、その仕草と感覚で自らの昂ぶりを思い知る。思い知ってしまったら、脳裏はそれに支配されるように麻痺していった。
そのように、躾られた(・・・・)のだ。
「ああ、ジーニャ………っ」
首を反らせて縋り付く女の躰を片手で抱え、もう片方の手でドレスの胸元を無理やり開いて吸い付く。
久しぶりの作業だ。
(………久し、ぶり)
作業?
何を、
「………っ、」
ジルアートは驚愕に顔を上げた。
埋めていたそこに目をやれば、真っ白な肌を露わにして蕩けるような吐息を放つ彼女の姉がいた。
自分は今、何をしていた?
躰を床に置き、愕然とする。
………その時だった。
ぱきん、と枝の折れる音がした。
「………なにを、してるの?」
振り向けば、そこには意識から消えていた櫻の姿があった。
「さく、ら」
体ごと振り向いて、よろめいた体で彼女に近づく。
違うと言って欲しかった。自分で犯したことが信じられず、ジルアートは縋る気持ちで櫻に歩み寄る。
櫻の瞳が見える位置まで近づいて、ジルアートは思わず足を止めた。
櫻は、
静かに幾筋もの涙を流していた。
「サクラ」
胸を突くような衝撃に、ジルアートは声を震わせた。
櫻の後方にはヴィスドールが佇んでいたが、それは彼には見えなかった。
………抱き締めたくて。
涙を流す彼女を放っておくことは、絶対にできなかった。
衝撃を隠して近づこうとした時、櫻は嗤った。
「………やっぱり」
「サクラ?」
あはは、と引きつるように笑い、腹を抱える。涙はぼたぼたと石の床に染み入り、それでも櫻は笑っていた。
「―――………嘘つきね」
櫻は涙をぬぐうこともせず、人形のように綺麗に笑っていた。
「本当はやっぱり、欲しかったんじゃない。お姉さんが欲しくて欲しくて、仕方がなかったんでしょう。それを必死で抗ったけど、結局あなたが愛していたのはアジェリーチェだけ」
「サクラ、違います。私は―――」
ジルアートはそのまま口を噤んでしまった。たった今、抱こうとしたその体で、その口で。何が言えるというのか。
「………その人だったのね」
きょとん、とこちらを見上げる美女。成熟した見事な躰と、幼そうなその瞳。
光柱に遭遇した時の女だ。
「私のことなんか、愛してもいなかったくせによく他の人間を抱けるわね」
「………っ」
何を言われても黙るしかない。何を言えるというのだ。違うといえる状況ではない。これがたとえ本意ではないとしてもだ。
けれどその態度は結局、櫻の言葉を肯定したように見えた。
櫻は激高した。
信じられなかったのはジルアートのせいだ。
ジルアートは嘘をついていたのだ。
信じられるわけがなかったのだ。
は、と息を吐くたびに、全身から力が抜けていくような気がした。
ジルアートはどうやっても、きっと櫻だけを見ることはない。
この美しい狂った姉を、何より大事に思っている。
櫻のことより。
………私の、ことより。
心が震えた。
失った恐怖にだ。絶望にだ。
ああ、どうしたらいい。
どうしたら。
もういらない。 いらない。 いらない。 何もかも!
―――その時、声がした。
「さ、”ゲームオーバー”だよ。お姫様」
そこにいた全員がびくりと反応するが、気配はない。
(何か、くる)
櫻はなぜか、空を仰いだ。
あるのは頭上の金色の大きな満月と、その光に照らされて映る遠くの島々。
月を背に、黒くて小さな何かが見えた。それに焦点が合った途端、櫻は目を見開いた。急速にその影は大きくなり、瞬きごとに近づいてくる。落ちてくるのだ。
―――……人の形として。
ダンッと大きな音がして、その黒き影はジルアートと櫻の間に着地した。耐えきれなかった空気と振動が舞い踊って、櫻のドレスはその風圧で翻る。
銀色の髪がふわりと風に靡いた。日本の武者のように煌びやかな黒い戦装束。違和感と同時に不安が胸を襲う。
膝を付いてそこにいたのは、現実の世界で初めて見るディディエだった。
「………ディー……?」
ディディエはちらりと視線を寄こしたが、返事をせずにジルアートに向き直る。金に縁取られた宝玉のついた刀を一瞬で鞘から抜き取ると、瞬時に刀を持ちかえて両手で構えた。そのままジルアートの元まで跳躍すると、袈裟懸けに一気に斬りつけた。
真っ赤な血が、勢いよく吹き出す。
赤い長い髪が、揺れて。
「――――!!」
櫻は声にならない悲鳴を上げた。
気が付けば目前にディディエは立っていた。静かな瞳。何の揺れもない、穏やかな瞳だった。
そうして、神のような傲慢な言葉を口にする。
「この箱庭も、もう終わりさ。アウラ」
冷たい風が吹いて、ディディエの長い髪が櫻の腕に触れた。その至近距離に、思わずディディエの腕に手をかける。
「男は君を傷つけた。世界はそれを、許さない」
そこの男が望むように。
視線を辿れば、ヴィスドールが嗤っていた。
………嗤って。
「………ディー、何を、言ってるの………?」
わからない。
わからないのに、櫻は震えていた。
怖くて怖くて、仕方ない。
ディディエは小さく微笑んで、櫻の体を支えた。
………そして。
「グランギニョルは六戒を破ったんだ。天からの裁きを受けるがいい」
次の瞬間。
足元の石床は崩れ、月に映る島がぼろぼろと落ちていく。
視界を焼き尽くすほどの閃光が見たし、全てが崩れる音を櫻は聞いた。
………世界の断末魔を。