アウラの慟哭4
視界を埋め尽くす人や、色や、騒音。それらを潜り抜け、ジルアートは懸命にその姿を探し回った。
たとえ髪の一房でも。ジルアートがあの天使を見紛うことはない。
時折、視界の隅に入る小さなそれを追いかけて――― 壁の一部であるガラス戸を、気配を殺してそっと、開く。
………誰にも、気取られることのないように。
軋んだ音を最後に、分厚いガラスが世界を隔てた。
しん、と静まり返った夜。賑々しい喧騒の中に身を浸している参加者たちは、外など眺める暇はない。そう、時を知らせる月以外には―――。
ジルアートは冷気に息を吐き出した。微かに白くなったそれは、闇にすぐに紛れてしまう。
建物の影へと消え去った、金色の姿のように。
見上げた空に星は見えない。
人気のまるでないその場所は、昼間であれば散策で人が集まるだろうことが伺える。整理された歩道に歩みを進めれば、香るのは微かな薔薇の香り。
風が強い。ジルアートは、赤いその髪を掻き上げる………そうして辿り着いた、ホールから然程離れてはいない死角の場所。頭上の月の光が、彼女を照らす。
彼女は笑って、こちらを見ていた。
「アーチェ」
おいで、と白い手が手招きをする。
いつもと同じ。檻のような屋敷で、呼ばれたときと同じように。
ジルアートは、同じ色を映した瞳を大きく揺らがせた。
そして声もないまま、ふらりと足は彼女に応えて進んでいく。
ねぇ。
ねぇ、来て。
遊びましょう。
目前に佇むアジェリーチェは、白い装飾の少ないドレスに身を包んでいた。
ドレスの絹の滑らかさが、月の光に輝く。
微かに開いた唇は、あの日々と何ら変わらず色めいて見えた。
「ジーニャ」
声がした。砂糖菓子のように甘やかで、薔薇のように匂いたつような声だ。
ああ、とジルアートの瞳は更に揺らいだ。
彼女は無邪気に、そのほっそりと美しい両腕を差し出してくる――― 抱擁を、求められているのだ。
「アーチェ………」
なぜ、ここに――― その問いは、彼女の指がせき止めた。
たった一本、彼女の人差し指が唇を塞いだからだ。
「………ジーニャ。わたしのジーニャ。会いたかった」
猫のようにするりと、彼女はジルアートの胸元に身を寄せた。
反射的に抱きとめて、ジルアートはそれでも、眉を寄せて首を振った。
「………どうして、ここに」
「………? ジーニャ。会いたかったでしょう?」
遠いところへ行くと言っていたでしょう。わたし、ずっと待っていたのよ。
―――ね。
疑いなど見えない笑顔で、彼女は胸に頬ずりをした。
***
ふ、と皮肉が得意なその口は笑った。
「なんだ。自分から送り出しておいて気になるのか?」
新たな傍らの男は意地悪くそう囁いた。ぼんやりと広間を眺めていたことへの皮肉だろう。櫻は鼻に皺を寄せた。
「………そんなんじゃないわよ。知り合いに会いに行ったなら、一緒に挨拶に来るかと思って………」
ようやく最後の一組を送り出したからだろう。本来なら玉座の代わりである椅子に、櫻はふらふらと座り込んだ。立ちっぱなしもキツかったが、一口ずつ口にした酒量も、積み重ねれば酔いに片足を突っ込む程度の量にはなっていた筈だ。別段本当に酔っているわけでもないのである。
頬がやけに熱いのはホールの熱気に当てられたせいだ。………ヴィスドールは顔色一つ変えずそこにいるが。
「誰を追っていったか、知りたいか」
櫻は弾かれたように顔を上げた。
何の感情も映さない相貌が、こちらを見下ろしている。完全に昇りきった月と共に。
「………何を?」
わからぬわけはないだろう、と誰にも聞こえない声量で呟く。
「あれが見つけたのは、女さ」
その声はするりと櫻の心の隙間を探る。
櫻は吸い込まれるように、赤い目を見た。
「………おんな………?」
「ずっと焦がれ続けていた女を見つけたんだよ。あいつはな」
――― 息が止まる。
全身の血が引いていくような感覚と同時に、周囲の喧騒が消えた。
「神託者殿も知っていると思っていたが………違ったのか」
ふぅん、と何でもない事のように、狐目はそう嘯く。
何か、と焦る。
何か、口にしなくちゃ。
この話を聞いていたくない。
なのに口の中が干上がって、言葉は張り付いたように出てこない。
先ほどまで嫌と言うほど持っていた杯が、今心底欲しかった。
「あいつの姉のことだよ。あいつが唯一、愛した女」
「………アジェリーチェ………?」
ああ、と淡々と男は頷いた。
それがどれだけ櫻の中を瓦解させていくか、何も知らずに。
「何だ、知っているじゃないか。引き合わせてやったんだ。ようやく彼女を軟禁から解放出来る手はずが整ったからな。連れてきていたんだが………」
この群衆の中でいの一番に見つけるとは恐れ入る。
―――その言葉すらも、遠かった。
冷静なジルアートの焦燥。
最後の言葉を振り切るように、飛び出していった背中。
「うそよ」
櫻は手を握りしめた。
「お姉さんのことは、家族として大事だって」
「それを信じたのか?………まさか」
小さな抵抗を、神官は叩き潰す。
「彼女と見えることを禁じられてから、ジルアートがどれだけ彼女のために身を犠牲にしてきたか、知っているのか」
「………、」
――― 櫻が口を開く隙を、与えずに。
「アジェリーチェの安寧。それだけがジルアートの願いだったんだよ。例え会うことができなくても、あいつはひたすら、」
「…っ、やめてよ!」
誰に聞かずとも知っている。
櫻が一番、良く知っているのだ。
老人にその身を投げ出しても、彼女を守った。
一族を惨殺した時でさえ、唯一手にかけることができなかった。
誰に聞かずともジルアートの最愛は最愛は最愛は最愛は最愛は最愛は最愛は最愛は最愛は
―――…… 誰より、想っているのは、
「―――――ッ!! やめて、違う、違う………っ」
もう迷わないと決めたはずだ。
信じると決めたはずだ。
だって、彼は告げたのだ。
”……女性として愛しいのは、この世界中探してもあなただけだ ”
信じると決めた、はずなのに………
櫻は絶望した。
ジルアートがアジェリーチェを追ったという言葉にではない。
「彼の言葉を信じられない自分」にだ。
突きつけられた気がした。
ジルアートを想っても、想っても。
櫻はどうしても………”彼を信じ切れない”という事実。
そんな、と掠れた呟きの後、櫻は呆然とした。メッキのはがれたそれを、必死に守ろうとする。けれどそれは空しい努力だ。
そう知っているのも自分じゃないか。
埋められない空洞を目の当たりにして、目の前が真っ暗になる。
「確かめてみるか?」
涙を浮かべた櫻の目に映るのは、穏やかに微笑むヴィスドール。
(お願い、お願い。………信じたい。信じたいの。……信じさせて、ジルアート)
櫻は、差し出されたその手を―――……… 取った。