アウラの慟哭2
大幅に加筆しました。(2012/4/8)
淡い薄絹を折り重ねたような、小さな煌めきが動きのたびに光る銀色の髪。彼はそれを無造作にまとめて結い、背へと流した。それに合わせて、身に着けた装具が音を鳴らす。
薄暗い研究室には多くの見慣れた顔があった。彼らは一様に、その美しい男の支度を待っていた。
白い手袋をすると、見下すように眺め見やり、手を確認するように指を動かす。戦の支度も同然だ。
彼は、静かに高揚していた。
腰に帯びた宝飾だらけの剣に手をやる。そして黒に金糸がちりばめられた手甲を確かめた。身に着けたその戦装束は、柔らかくも軽量で、体の部分部分をしっかりと守っている。
そうして身支度が整うと、ぐるりと周囲の男たちを見た。見慣れた筈の顔たちが随分老いたように思えて、彼は苦笑する。
そう長くもない時間だったはずだ。けれどその時間は確かに、我々を苦しめ、永劫の牢獄に縛り付けてくれた。
それも、ようやく終わる。
「いいよ」
ディディエの頷きに、全員が散開して持ち場についた。明かりのない闇色の研究室は、壁一面のモニターやキーだけが淡いグリーンに光っている。ディディエが立っているその場所は、ミーティング用にスポットライトが設置されている。そのため、彼が何の表情も浮かべずに、研究員たちが動き回る様子を見ているのがわかる。
ディディエはゆったりと腕を組み、その作業を見つけていた。
研究室のあちこちから、キーを叩く効果音やモニター上の計算の効果音が小さく鳴り響いている。
もうすぐだ。
ディディエは目を閉じて小さく笑った。
やがて中央最奥の巨大ディスプレイに、青空の中に浮かぶ巨大な島々が投影された。端に表示されたのは――【Grand Guignol】”グランギニョル”
続いて、中央【wispland】”ウィスプランド”に焦点を合わせた各ディスプレイも起動する。
タン、と最後にキーを叩いた男は振り返った。
「ディディエ。いつでも行ける」
「オーケー。僕もいつでも」
煌々と表示されている、緑溢れる天空の島――【Grand Guignol】”グランギニョル”
ディディエは足を踏み出した。
「いつみても美しいね。僕らのお姫さまの楽園はさ」
夢を見ているような、あどけない溜息をつく。
周囲の研究者たちからも、小さな笑いが漏れた。
「お前を放り込んでから、再構築が完了するまで今度は時間がかかる。前のは緊急用だったからな。今度は長時間耐えうるようにしなきゃならん。視覚を認識したら太陽を見ないように気をつけろ。目が焼ける」
「おいおい、そんな上から僕を落っことす気かい?容赦ないねェ」
「グランギニョルの高度が高すぎるんだよ。アウラの奴、海も見えないほどの高度に設定しやがった。そもそも海を造る予定だったのに、忘れたままだしな」
だから落ちたら終わりだぜ。
笑いながら、男は再び目の前のキーを叩き始める。
「お前が到着するのは夜だ。披露宴が始まる頃には、空の色が変わっているはずだ」
「うん。いいね。僕の美貌も際立つっていうものさ」
カタン、と男のイスが鳴った。ディディエが背もたれに手をかけたせいだ。
「………泣かすんじゃねぇぞ、ディディエ」
隣で転送装置の処理が終わった男が、ぽつりと呟く。
その声は、静かに研究室に響いた。
「………泣かすのは、僕じゃないよ」
ディディエははあ、と俯いて深く息を吐いた。
そして―――
「救護班の準備よろしく」
『了解』
鋭い眼差しをそのままに、銀髪の麗人は研究室から掻き消えた。
***
――― 朝は、誰の元にも平等に訪れる。
凛と、背筋の伸びる日だ。
ジルアートは目覚めの瞬間からそれを感じ、そして今、改めて生き返ったような心持ちで傍らの女性を見つめていた。
膝をつく彼の少し前に、見慣れた茶色い髪をしたその人はいた。このグランギニョルに神託を齎す者として、神の次位にあるとされる崇高な存在そのもの。
穏やかな心境だった。
自然と目を細めて彼女を見るようになったのは、最近の癖だ。
どこか、眩しい。触れ合う時、語らう時、彼女は神に近しいその座から飛び降りるようにして、彼の元へと近づいてくる。……その自然な笑顔は、ジルアートの心を凪いだように落ち着かせるものだった。
金色の髪は、まだ脳裏にちらついている。どこまでいっても、あの人は、家は、胸の中に巣くっていて、逃れることなどできはしない。
以前なら絶望して、足掻くことすらしなかった。それさえも、半身とも言うべき彼女は”覚悟”をさせてくれたといえる。
………逃れることはできなくとも、彼女を諦めることだけは決してない。
その覚悟を持って、ジルアートはアウラ継承の儀に臨んでいた。
***
ああ、と女の頬を涙が伝った。
薔薇に囲まれたその小さな世界は、彼女の世界そのものだった。
朝の光に変わる前の余韻――黎明の光彩が、唯一の天井近い窓から射し込んで、あたりを青く照らす。
「――様、わたくし、逢いたいのです」
赤い薔薇。その香りに溢れた白い小さな部屋。祭壇と、祈りの床、それを囲む薔薇には棘がある。
それが彼女の世界なのだ。
「……わたくしの、ジーニャはどこ? 神官様」
祈るように光に跪いていた女の後ろに、男が立っていた。
漆黒の長衣は、喪を表す。
赤い狐のような瞳は、何の感情も映さずそこにあった。
「逢わせてくださるのでしょう。返してくださるのでしょう、神官様」
「………もちろんだよ。ジルアートの姉君。彼は君を想って、眠れぬ夜を過ごしている。君が行ってあげなければならない」
「ええ。ええ。ずっと不思議でしたの。ジーニャは、全然帰ってこないのですもの」
男の手は、女の肩に添えられた。
慈しむように。
けれどその手は氷のように温度がない。
「今夜、ようやく逢わせて差し上げることができることになったのですよ」
「………まあ」
「………愛しているのですね。彼を」
「もちろんですわ。そして、あの子が愛しているのもわたくしなのです。行ってあげなければ」
――― 今宵、星が瞬く時。
血のように赤く、艶やかな笑みと―――。
天使のようなあどけなさを持って、アジェリーチェは微笑んだ。