アウラの慟哭1
披露宴が行われることになったという報は、またたく間に神殿中に広がった。或る者は電報へ走り去り、或る者は停止されていた支度を再開させるべく持ち場へ戻る。披露宴の無期延期という事態が引き起こしていた混乱は依然そのままだが、披露宴が行われる目処がついたのであれば話は別なのである。
「いない?どういうことだ」
眉を寄せたバースの元には、上官不在の報告が届いていた。足取りが掴めないという。
アウラが目覚めたことは当然彼も承知の筈。不測の事態に陥る前に、披露宴の支度は大方終了していたわけで、それを再開させて忙しなくしている今の時期、確かに上官の指示を得る緊急性はない。………だが、一体どこへ行こうというのか。
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「ヴィスドール」
この名を呼ぶのは何度目だろう。乾いた声の響きの気がして、櫻は自分に困惑した。
久方ぶりに会う男は、誰もいなくなったアウラの居室を訪れていた。ジルアートは警備の確認をすると言ってここにはいない。今まで聞いたことはなかったが、警備の統括は彼であるらしいからして。
この男と二人きりになるのは初めてではない。
にも関わらず、櫻は寒気と共に困惑した。
ふらりと音もなくやってきた、狐目の男。その姿は見慣れていたものと変わらないはずなのに―――どこか、違和感を覚えるのだ。
「………ヴィス……」
「目覚めたと聞いたからな。………よく目覚めてくれた」
くく、と冷笑がヴィスドールの相貌に浮かぶ。
歩み寄ることを拒絶することができずにいるうちに、ふわりと眼前で立ち止まる。そうしていつかのように、櫻の頬を包むように手を当てた。
「………どうしたの」
「変わりはないか?」
頷こうにも、ヴィスドールの手がそれを邪魔していた。
「………変わりはなさそうだな」
尋ねた返事を待つことなくそう告げて、自分で納得したようである。
相変わらずの態度に、櫻は呆れて見せた。そうでもしないと妙な違和感は払拭できそうになかったからだ。
「あのね、入って早々そういう言い草はないんじゃない?一応寝たきりだったんだから、労わってよ」
「こちらも寝たきりになった誰かのせいで、色々と立て込んでいてな。不眠不休を地でいかせてもらったよ、神官全員でな」
「………それはどうもすみません」
ぐうの音も出ないとはこの事だ。そう言われると何も言えない。光柱の元へ、単独赴いたのは櫻であるし、それによって混乱が起きていることぐらいはジルアートに聞いている。
ヴィスドールは常のように皮肉を口にしただけだ。櫻は嘆息した。先日会った、副官であるという青年にも謝らなければならないだろう。
櫻は懸案を口にした。
「………パメニは?」
「ルクシタンの家で謹慎だ。曲がりなりにもアウラの傍仕えが肝心な時に傍を離れたのだからな。仕方あるまい」
櫻はますます縮こまった。
それを見たヴィスドールは、櫻を開放すると頭に手を乗せてやった。
「披露宴では付き添えるよう手配してやる。このような事態の急変に、猫の手も借りたいぐらい私は多忙だがな」
「………よろしくお願いします」
くそう、と内心呻きながらもこれ以上ないほど慎んだ。仕方あるまい。
ふふん、と頭上で満足げな声がした。
「それでいい。ああ、今神殿中で披露宴の支度をしている最中だ。お前が出歩くと害にしかならん。動くなよ」
「仰せの通りに」
櫻は恭しく礼をした。目覚めてジルアートと語り合った後、気が抜けて再び眠って起きた後のことだ。一か月程度眠っていたらしいと聞いたあの瞬間の驚きは記憶に新しい。「ちょっと困ったことになっているのです」と苦笑した青年の話は、何重にもオブラートに包んであったが事態はやはり深刻なようだ。この部屋は変わらず静寂に包まれていて、現実味はないのだけれど。目覚めてすぐにヴィスドールが来なかったこと自体がそれを物語っている。
「披露宴は三日後だ。これ以上は延ばせんからな」
それを報告に来たらしい。ついでに様子を見に来てくれたのだろうが、櫻はここでようやく肩の力を抜いた。
「飲んで食べて、杯を交わせばいいって聞いたんだけど」
「食えないだろう、確実に。杯を交わせば交わすほど……そんな具合に客人が押し寄せてくるはずだ」
「………それ、本当に出なきゃダメなの………」
「愚問だな」
ヴィスドールは退室しようと踵を返し、思い出したかのようにこちらを見た。
櫻は首を傾げる。
じっと見据えてくる目は、久方ぶりに見た赤だった。
「………ヴィス?」
「ジルアートは片時もお前の傍を離れなかったよ。神託者殿」
言葉を理解した途端、櫻の頬がかぁっと紅潮した。
満足げにそれを見やり、ヴィスドールは今度こそ退室した。
櫻は思う。
もう、迷わないと。
―――心は、喜びにあふれていた。