真実9
長いです。
マリーシア学院入学後、ジルアートは今まで触れたことのない世界の扉をいくつも開くことになる。
屋敷を出たことのなかった彼にとっては、同じ世代の子供たちと共同生活をするというだけでも未知の世界だというのに、学ぶ内容も見るものすべてが新しかった。アジェリーチェのことは気がかりであったものの、ジルアートの瞳を開かせてくれた場所であったといえよう。
……ただし、彼と共に学び、笑う友人はいなかった。
入学直後から彼の周囲は閑散としていた。またジルアート自身も積極的に取り合おうとはしなかったのだ。
キルセルクの家が原因であったことを知ったのは随分後の話で、この時はただ単にその労力を億劫に思ったのと、人付き合いに慣れていない彼にとってはそれほど不自由を感じなかったからという理由だけである。
話を元に戻そう。マリーシア学院では、基礎教育として設定されている科目を履修するほかは、自らの選択で履修を決める必要がある。
貴族の子供たちである彼らにあらゆる可能性を示すため、これらの選択肢は多岐にわたる。
上位の神官を目指すものは法学や術学の領域に絞り、その中で選択し、自らの可能性を把握していくこともできれば、満遍なく神官としての知識をつけることもできる。前者であれば、専門の術に特化した法術神官として魔法師団を目指すことができるであろうし、後者であれば祭典を執り行い神殿を管理する祭術神官を目指すことができる。
そういう意味で彼が選択したのは、政治学と剣術だった。
政治学とは、グランギニョルの権力図を把握し、それぞれの機関がどのような機能と立ち位置を示しているかを第三者の視点から検討し、論じていく研究領域を示す。剣術はいわずもがなだ。
術に興味もなく、勉学にもさして魅力を感じなかった彼にとっては自然の選択だったといえる。
……が、すぐにそうも言っていられなくなった。
ジルアートが回廊を歩いていると、大方かち合う相手がいる。
また今日もか、とたいてい顔を見つけた瞬間。
ジルアートの秀麗な顔が顰められる。
「よう。今日も優秀なんだねえ、キルセルクのお坊ちゃん」
この男だ。にやにやとした、下品で粗悪品のような男。
ナイル家の嫡男であるという。ただし、愛人の子供だ。
ナイル家といえばグランギニョルに憚る貴族の中でも上の方らしいが、ジルアートにそこまでの興味はない。
貴族であるからとこの学院に入ったことは僥倖だが、能力は身分の差など関係ない。
剣術の力社会を身をもって知っている彼は、身分をひけらかすことしか能のないこの男が嫌いだった。
「…………」
言葉を交わすことも嫌だったので、毎度のことジルアートは冷たい一瞥の後はなかったものとして通り過ぎる。これもいつものことだ。
この妙な習慣が身についたのは、政治学の科目を選択して目をつけられてからだった。
政治学を学ぼうと思い立ったのは、ウィスプランドの屋敷とキルセルク家の顔として矢面に立つことになったものの、如何せん政治の世界に関しては無知であったからだ。
理由はわからないがキルセルクの名は評判があまり良くない。出不精の父や祖父のせいかもしれなかったが、この時のジルアートにはやはり理由がわからなかった。それでも挨拶に名乗った後の相手の顔の強張りようからうかがい知れる程度には、好かれていないらしい。
ここにキルセルク家の人間として改善の余地を見出したという理由は大きい。
剣術は昔から教養の一つとして本邸で嗜んできた。身体を動かすことは嫌いではなく、身を守る術を会得することはそう悪いことでもない。その程度の認識で政治学と剣術の領域を学んでいくことを決意した。
……だが。
「何とか言えよ!口も開けないっていうのか!」
ジルアートの態度に、今日も真っ赤になって男が叫んだ。
この男はすぐ子供のように癇癪を起こす。いっそ哀れに思え、滑稽すぎる男に同情の念すら覚えた。
振り返って、乾いた声で男に告げてやる。
「……貴様と関わり合っている時間が惜しい。それだけのことだ」
そう言い捨てて、ジルアートは再び歩みを開始した。
まだ何か叫んでいるようだが、常に侍っている取り巻きがなんとかするだろう。
そう思った次の瞬間、男のことは意識の外に切り捨てる。何度来ようとも同じこと。
ジルアートは一々彼らのような人間を相手にしてはいられない。
彼の実力を妬み、喧嘩をふっかけてくる人間は学院に多くいたからだ。
真っ白なシーツのように余計な知識もプライドも持たない彼の成長は、周囲が驚くほど早かった。機転がきき、頭の良いジルアートは権謀の地図を正確に理解して笑顔で立ち振る舞えており、1年が経つ頃には社交の場におけるキルセルクの評判は格段に上がっていた。
剣術の腕も身体の成長に呼応して、学院内では頭一つ飛びぬけた実力をつけた。
それは空を駆ける竜のようだと評されたこともある。
賞賛にも批難にも表情を変えないことから、氷の貴人と呼ばれたこともある。
だが、どちらも彼にとってはどうでもよいことだった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
視線が合った途端にぎょっと逃げさる人。人。
視線を寄こすくせに、相対する勇気はない。そんな人間がほとんどだ。
思ったよりも自分に向いていた政治学は世界を見渡す目をくれたのだし、剣術はあらゆる事象を叩き潰す力をくれた。あとはもう、本邸に戻ってアジェリーチェや一族の者たちと「務め」に戻るまでの期間を恙なく、可能であれば家名を高める程度のことをして過ごせればいい。
それだけがジルアートの中で必要な柱だった。
政治の中枢への興味と、あちら側からのアプローチはあっても、それはジルアートの行動を変えるほどのものではない。
社交場での家名が高まり、キルセルクの名に怯えていた人々も彼のみならず、一族を招待せざるを得なくなったのだろう。
父や祖父が招待されることも増え、ウィスプランドの屋敷に滞在することも増えてきた。それに伴って家人も賑やかになってきたし、この頃では長期休暇に 彼が戻るのではなく、アジェリーチェが遊びに来てくれるようにもなった。
周囲の思惑を全く気にかけることなく、ジルアートは淡々と一人で成長していったのだった。
***
絶望と真実が、世界の波となってジルアートに襲いかかってきたのは、二年に一度開かれる武術大会の直後のことだった。
マリーシア学院に卒業年は設定されていない。要件である基礎教育を修了していれば、必要なだけ学び、それを自覚すれば卒業できる仕組みとなっている。
ジルアートがここへ入学したのは十三歳になりたての頃だった。それからちょうど二年。武術大会は初めての経験だ。身長も伸びて扱える剣技も増えた頃である。
この頃ジルアートは呼び止められることが多くなった。
陰険なやっかみは以前からのことであるが、他の方角からのアプローチである。
長身のジルアートからすれば幼さの残る顔立ちの生徒たちが数人、近づいてきた。
「キルセルクの方。今度の武術大会には参加されるのですか?」
この頃には孤高の生徒としての地位を確立してはいたが、日に誰とも会話がないようなことはなかった。憧れに目を輝かせた名前も知らない者たちに、声をかけられることが増えたからだ。
ジルアートとて、悪意なく声をかけられて無視をするほど人間として欠落してはいない。
「……ああ。そのつもりでいる」
一拍おいて、簡潔な言葉を返すだけだが。
「そうですか!ぼ、ぼくたち応援していますね!」
ぱあっと顔を明るくさせた少年に、ジルアートは一歩後ずさった。
「あ、ああ……」
大会に参加することは違いないが、あくまで腕試しの意味でのこと。
特に通常以上の支度をするつもりもないというのに、妙な応援要員は次第に増えていった。
***
「で?優勝とかしちゃったの?」
興味津々、と櫻は尋ねた。
傍らの青年は、苦みに耐えるような表情で頷いた。
「ええ。正直、私も優勝してしまうとは思っていなかったんですけどね……」
ジルアートの実力が学院で抜きんでていたことは自他ともに認める事実だ。
だとしても、教員に勝てるほどの力を有していたわけではない。だがそれは、確かに学院に名を残す大事だった。
「参加していたのは、得物は違えど四年生以上の生徒たちばかりだったんですよ。学院に通って、平均四年生以上が上級生として認められますからね」
その彼らを差し置いて、入学して二年のひよっこが、栄えある武術大会を治めてしまったのだ。貴族が通う学院は、さぞ揺れたことだろう。
櫻はおかしそうに声を明るくして応えた。
「ふむ。それに勝っちゃったわけね?」
「そうなんです。まあ、後から聞いた話ですが、それがきっかけでアウラの剣の主候補として神殿に知られたようなので、そのことに悔いはありませんが」
「が?」
ジルアートは微かに笑った。
「そのことで、さっき話したナイル家の奴。覚えていますか。あいつは、我慢ならなかったんでしょうね。キルセルク家の闇の部分を大勢の前で……騒ぎ立てた。誰もが知っていて口を閉ざしている事実。それを俺が気に入らないという理由でぶちまけたんです」
俺は本当に、何も知らなかった。
ジルアートはぽつりと、そう呟いた。
***
武術大会で優勝してから、ジルアートの身辺はまた少し変化していた。
あらゆる生徒に距離を置かれていたのが、少しずつ緩和されていったのだ。
「今度手合せしよう」と言ってくる上級生も増えた。ジルアートにとって、妬みによる嫌がらせ以外の反応はどうにも対処が遅れてしまうのだったけれども。
それでもジルアートは、社交の場とは違う、人との関わりを増やしていくことになった。
とにかく、そうやって彼の周囲には理解者が徐々に増えていったのだ。
もちろん、以前から彼を毛嫌いするものは変わらず存在した。そして武術大会の後、彼らの反応は大きくなりつつあった。まるで風船に水を注ぐかのように、少しずつ、少しずつ。
そうして、重みに耐えきれなくなった風船は――
あの日突然、破裂した。
学院の大きな食堂で食事をとっていた時のことだった。
巨大な木製のテーブルは横に長く、数十人がそこで一度に食事をとることができるものだ。食堂にはそのテーブルが、縦にいくつも並んでいた。
ジルアートは、何人もの知人たちとそのテーブルを囲んで食事をしていた。
そのぐらいのことしか、ジルアートは記憶していない。
後の衝撃が、前後の記憶を奪っているのだ。
よぅ、と声をかけてきたナイル家の男の登場。ざわついたのはジルアートでなく、その周囲の生徒たちだった。
その一人が――確か上級生だったと思うが――声をかけた。
「何の用だ」
「ごあいさつだな、せっかく声を掛けてやったというのに」
ジルアートはやり取りを無視して黙々と目の前の皿を平らげていた。
いつもなら激高する男なのに、その日はやけに機嫌がよくにやついていた。
「おいおい。話しかけてンのに無視をするのがキルセルクの流儀かよ。武術大会で優勝して、お高く留まり過ぎなんじゃねえか?なあ。こんなに人を侍らせてなあ」
ジルアートはそこでようやく、視線を上げた。
何度となく睨みつけた男の顔を、今日もまた、睨む。
「キルセルクの流儀とは心外だ。私は誠意ある言葉には耳を傾けているつもりだが」
ジルアート自身へのやっかみ。それによる中傷。これらは一切彼を傷つけない。
だがキルセルク家への中傷は許せなかった。
男はにいやりと嫌な笑みを見せた。
陰湿。まさにその言葉が似あいの男だ。
「ほお。家を馬鹿にされるのは我慢ならないって?キルセルクのくせに」
「……私の一族を揶揄するか」
「だからさあ、お高く留まってんじゃないって言ってるんだよ。キルセルク家のお坊ちゃん。キルセルクみたいに穢れた家の奴らなんて、家畜以下さ!」
「やめろよお前!」
ジルアートの傍らに座っていた少年が叫んだ。その面持ちはやや焦りを含んでいる。
どよ、とざわめきが周囲に及ぶ。困惑が見て取れる空気だ。貴族である彼らは、キルセルク家もナイル家も社交の場で意味ある家であることを知っている。キルセルク家が古くからの名家であり、このところ天を突く勢いで評判を上げていることも。
だがそのような状況は、ジルアートにとってどうでも良かった。
そんなことより、彼の一族を傷つけようとする男が目の前にいる。
そのことが許せなかった。
「……我が名はジルアート・カストル・キルセルク。それを知っていて、私の前で戯言を言うか。……貴様、我が一族を穢れているだと!」
怒りで声が震えるのがわかった。
ジルアートの名を呼ぶ人間が何人かいた。皆宥めようと声を掛けてくれているのはわかったが、何の効果もない。
視線で人を殺せそうだ。その怒りを受け止めながら、男はさもおかしそうに笑っていた。
「何が可笑しい!」
「ぷっ……っくく。だって可笑しいだろ!穢れた一族のくせに、穢れていると言われただけで怒るなんてなあ!本当のことだろうが」
男は心底可笑しそうに奇声を上げて甲高く笑った。
「お前の家さ、近親相姦やってるんだろ?血の繋がった家族とセックスしてるなんて、狂ってるよな。よく神罰が落ちないもんだ!」
男の言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ赤になった。
耳鳴りがする。
「お前の家、最近になってキルセルクの奴らが戻ってきているそうじゃないか。ウィスプランドで穢れたことをするのはやめて欲しいもんだね。俺、知っているんだ。キルセルクだけは、近親相姦なんてことをやっても、光柱が落ちないって。ずっと昔からヤッてるんだろ?グランギニョル中の貴族が知っていることさ!」
頭の中が、真っ白になる。
その時気づいた。
周囲の人間――つい先ほどまで言葉を交わし、共に食事をしていた者たちだ――が、耐えるように目を伏せていることに。
男は嗤って言った。
「誰も言わないだけだ。お前の血も、お前の家も、穢れているじゃないか!」
この状況は、何だ。
心臓が強く脈打つ音がした。
この男がさっきから口にしていることは……「務め」のことなのか。
「表立っては誰も口にしない。それが口にするのも憚られるほど穢れた事実だからさ。でも、俺は優しいから教えてあげるよ、ジルアート・カストル・キルセルク。お前は生まれながらに罪人だ。もう近親と寝たんだろう?ああ、汚い。穢らわしいかぎりだ!」
「何、を……」
血の気を失いつつあるジルアートを見て、男は再び笑みを浮かべた。
勝者の笑みだ。
「随分と美しい姉君がいるそうじゃないか?君は。長い金の髪に白い肌、君と同じ瞳の色をした……ね。どうせもう、彼女とも交わったんじゃないのか。ふふっ、ああ、汚い。汚いね君は。ほら周囲の人間たちが戸惑ってしまっているよ、キルセルク。ちゃんと言い訳をするなりなんなりしてくれないと……」
男の声が遠ざかってゆく。
穢れた行為?……「務め」がか。
なぜ。
近親の交わり。……そうだ。それが「務め」じゃないか。
それが、何だって?
「……けが、れ」
父が、祖父が。彼等がこの学院に入るよう促したのはなぜだ。
当然だ。なぜなら彼等も通ってきた道だからに他ならない。
……通って。
――なら、彼等も。
体中の血が逆流したようだった。
ジルアートは聡い。知識さえあれば、情報を組み立てられる。
今までの行いが一気に脳裏を駆け巡る。
「務め」とは神聖な行為ではなかったのか。
キルセルク家に託された義務。そう、義務があるのだ。
一族の者同士で「務め」に励むことだろう。
違うのか……?
違う、のか。
この学院へ入学した真の目的に辿り着き、ジルアートは真っ青になった顔で口元を覆った。
テーブルに付いた方の腕がぶるぶると震える。
そうか。
この学院へ入学させられた真の目的は、何等かによって【真実】を知ることだったのだ。
知った上で、家を継げと。
それが目的。無言の命令だったのだ。
天使のような、愛らしい笑顔が浮かぶ。
……彼女も。
ぜんぶぜんぶぜんぶ。
………ぜんぶ。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ジルアートは頭を抱えて絶叫した。