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震える剣  作者: 結紗
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真実6




 櫻は動揺していた。

 気がついたら目が開いていて、そのまま起き上がった先に広がる視界は見たことのない部屋だった。ゆえにふらつく身体を押してまで、現状を把握しようと外に出た。ただそれだけだ。何室も続く広い部屋をようやく抜け出て、人の気配のない冷たい回廊をたどたどしく歩き、そして。

 

 ………一体、どうしたっていうのだろう。櫻は、抱えられたまま、顔を動かすこともできずにただ、部屋に到着するのを待った。会話は一度もないままだ。

 捻り上げられた腕が、まだジクジクと傷む。あの青年はこの神殿の神官だろうか。きれいな面差しは、最初の硬化的な印象を櫻にもたらしたものだが、最後の半泣きの様子にそれは見事に砕け散った。申し訳ありません、と何度も不敬を平伏しながら謝り続け、この傷む腕をまるで瀕死の者をみるような目で見つめ。その謝罪半ばで櫻はその場を辞することになったので、警備兵に囲まれながら真っ青になっていた彼がどうなったのかはわからない。ただ、謝ってくれたのだからそんなに恐縮せずともいいのに、とその時思ったのだが、その言葉は残念ながら伝えるまでに至らなかった。………なぜか。

 

 答えは簡単だ。

 今櫻を抱えている腕の持ち主が、それを許さなかったからだ。



 青年の足音が無人の回廊に冷たく響く。薄暗く、石造りのこの回廊はとても冷たく、寂しい。黒い石が多く使われているせいだろう。所々、色のある石が文様の形に削られて、壁に埋め込まれているのはとても優美だ。けれどなぜか、とても心細くなる。そうでなくとも、青年の二本の腕に支えられている今、櫻はどうにも身を落ち着けることができないでいた。何度抱かれても、この形になれることはないだろう。………こんな、吐息を感じるまでも近くに、彼の人がいることにも。

 そうして自問を続ける櫻は、ようやく抱えていた問題に行き当たった。………ああ、どうしよう、と視線が俯く。この世界も、自分も、そして彼も。腕に余るほどの問題を抱えている。それを見せまいとして、自らの矜持のために櫻は動いてきたはずだ。………けれど。

 櫻に駆け寄ってきた彼の必死な形相を思い出して、胸が。

 胸が、絞られるように痛かったのだ、と。………そう、告げられたらどんなに。

 それも叶わない願いだということを、櫻は知っていた。

 ジルアートは気づかない。この心の奥深くに沈めた闇に。


 回廊の最奥を占める大きな扉。ジルアートは櫻を抱えたまま、扉を開けて中へ入る。そこは先ほどと変わることなく、静謐な空気を漂わせていた。

 無言は続く。そのまま続く部屋を幾つか通り抜け、大きな寝台にそっと、櫻は横たえられた。ゆっくりと、身体が寝台に沈む。沈む身体と同時に、ふわりと良い香りがして、櫻は顔を上げた。見慣れた、けれど懐かしいあの朱色の長い髪が櫻の頬に掛かったのだ。瞳を見る暇もない。

 そうしてそこに待っていたのは、嵐のような口付けだった。





 ぎしり、と大きな寝台は唸る。ジルアートが一歩、身を乗り出して更に体重を掛けたのだ。

 櫻は奪われた呼吸に、眩暈がする思考に、必死に抗った。思わず足が上がったが、圧し掛かられた身体に動きを塞がれてしまう。両手もだ。華奢に見える身体は、筋肉で引き締まっているからだと知っている櫻は、彼の重みも知っている。知っていて尚、苦しさから無意識に手足が動いてしまうのだ。

 だから一度、落ち着くために離してほしいというのに、彼のキスはそれを許してはくれなかった。


「………ん、………っ……んんっ………」


 宥めるように、青年の掌が身体の脇を撫でてゆく。その感覚に、びくりと身体が反応してしまう。浮き上がった身体はすぐにシーツの海に戻り、甘い衣擦れの音を幾度も立てる。………ひっそりと営まれる、情交のように。

 間にあるのは、掠めるように時折開く空気の隙間。それだけだった。息をした途端、柔らかな彼の舌が櫻の感覚を呑みこんでしまう。


「……っ、ふぁ……んっ………」


 口腔内を蹂躙する舌は、櫻の弱点を知っている。けれど、とふと、櫻は目を開いた。目を開いた途端、溜まっていた生理的な涙がこめかみを伝う。

 瞳を閉じ、口付けだけを与え続けるジルアートに違和感を感じたからだ。彼は櫻の弱点を大抵は知っていて、記憶している。だからこそ、櫻の知りえるジルアートは、こんな一方的に行為を進めることなどしない。いつだって櫻の反応を待ってくれた。それが優しさであり、彼の本質なのだと櫻は知っていた。

 ………だから。

 苦しいくらいの口付けは止むことを知らない。両腕を押しても、彼の身体はびくともしない。抱かれる強い腕の感触も。そこで懸命に両腕を上に伸ばし、自由を得た。そしてジルアートの背に、精一杯それを回す。

 腕の力は優しく、包み込むように。それは先ほどのような拒絶ではなく、許容だ。

 ジルアートはその腕に気づき、びくりと肩を震わせて動きを止めた。は、と唇が触れ合う位置にまで引いたそれに、今度こそ櫻は目を閉じて首を伸ばし、啄ばむように口付ける。

 驚きを含んで震えた身体を、自ら引き寄せ。彼の唇を軽くんで。小鳥が甘えるような小さな口付けを、櫻は幾度も繰り返した。

 ………そうして、ゆっくりと。氷を溶かすように時間をかけてキスをする。

 そうして気がつけば、ふわりと抱かれる穏やかな腕の感触が戻り、掠れた吐息が交差して。

 蕩けるようないつもの甘い口付けの時間に、二人はしばらくぶりに身を浸すことができたのだった。







***







 ―――……長い、長い蜜のように蕩ける時が過ぎ。

 ジルアートはようやく、身を起こした。肘で体重を支えていたとはいえ、彼より小柄な櫻の負担になるかと思ったからだ。微かに息を弾ませたまま、距離を置いて見下ろせば、潤んだ瞳と真っ赤に色づいた唇の櫻が、同じように息を弾ませてこちらを見上げている。くたり、とした肢体を隠すこともなく。

 その様子が可愛らしくて、ジルアートは小さく笑って軽いキスを落とす。

 それに笑った櫻は、嬉しそうに目を細めていた。


「………すみません」


 苦笑の形で微笑したジルアートの腕を引き、ごろりと傍らに転がらせる。櫻は首を振って彼の首筋に、顔を埋めた。

 櫻の精一杯の甘えをどう取ったのか、その頭をジルアートの細い掌がゆっくりと撫でる。

 櫻が視線を合わせようと顔を上げると、既にジルアートはこちらを見つめていた。

 時間を掛けて、二人の間の微かな距離が縮まっていく。ジルアートは首をかすかに傾けて、唇に触れた。

 ああ、とどちらからともなく声がして、互いの身体を抱き寄せる。櫻は全身に触れるジルアートの身体の温度を感じる代わりに、彼の表情を見ることが叶わなかった。くぐもった、彼らしくない暗い声がした。


「………会いたかった。………本当に会いたかったんです、サクラ。目が、覚めなかったら、どうしようか、と、思っ―――」


 言い終わる前に櫻はぎゅうっと強く、再び力を込めて抱きしめる。

 ジルアートの詰まった声に、櫻の涙腺が壊れる方が先だった。 ぼろぼろと、涙が零れて止まらない。

 のんきに目が覚めたと散歩している余裕などなかった。ジルアートが深く、深く櫻を案じてくれていたことは、声と様子で瞬時に伝わった。だから櫻は、心の底から何かに懺悔したい気持ちになった。

 本当に、ばか。櫻は自分を罵倒する。ジルアートを呼べばよかった。部屋から出なければ良かった。

 何よりもまず、この青年が、自分を案じているのだということに気づかなければならなかった。

 ………それなのに。

 身体を離す。


「………ごめんね、心配かけちゃったみたい」


 そう苦笑する櫻の瞳に、影が走ったのをジルアートは見落とさなかった。

 この影は、いつからか櫻について離れなくなった。悲しみの影だ。

 しっかりと櫻の身体を抱き寄せたまま、けれどその影を彼女に与えたのが自分であることをジルアートはよく知っていた。

 謝罪の裏に、自分が櫻を深く案じることが想定外であったという認識を垣間見ることができる。そしてそれもまた、自らの咎であることも。

 その答えを、ようやく一つ、今、この瞬間に導き出せた気がして。

 でも言葉にできそうもなかったので、黙っておおくことにしたのだった。

 彼女の前だと自然に笑みを浮かべるこの顔が、戻ってきたようだ。自然と穏やかな笑みでいられていることがわかる。

 こつん、と櫻の額に自分のそれを当てた。


「………本当に。あなたが倒れたと聞いたときは、生きた心地がしませんでした」


 本当に。心臓を潰されたかのような心持ちだった。

 いつだって、呼んでくれると思っていたのに。そう嘆息して言う。気まずそうに、それを隠すためか唇を尖らせた彼女が反撃してきた。


「私だって、あんなことになるなんて思わなかったんだもの」


 そんな顔をしても可愛いだけですよと告げたなら、どんな反応をするだろう。けれどジルアートは黙って心にそれを留めることにした。年上の彼女は、どうも年上ぶりたい傾向にあったから。

 宥めながらも、ぼんやりとこの声の聞けなかった日々を思う。

 ………生きた心地がしなかったのは、本当だ。

 死んだような彼女を見続け、ジルアートを襲った恐怖。

 それは日に日に力を増して、彼に問い続けた。

 このままで、彼女を切り捨てることが本当にできるのか、と。


「………本当に、会いたかった」


 胸に染み入る様に。

 心からのことばは、櫻の心を震わせた。


「………わたしも」


 櫻は、嬉しそうに笑って、そして頬を染めて。

 

「わたしもね、会いたかった。夢の中で、ずっと」


「………本当に?」


「嘘なんかつかないわ」


「あなたの心が、無理をしてはいないですか」


 彼女の笑顔が、先ほどの影を見せないことにほっとして。けれどジルアートは不安を隠せない。

 彼女の心に翳りが生まれてしまうのは、自分のせいだというだけの自負はあった。


「そんなこと、あるわけない。………すごく、会いたかった」


 信じていないの、と拗ねるように言うけれど、櫻の表情は変わらない。それより、と彼女は言いにくそうに続ける。

 ジルアートが目を丸くするようなことを告げたのだった。


「……心配してくれて、ありがと」


 えへへ、と恥ずかしそうに笑って。

 笑って。

 この瞬間、ジルアートの胸を満たす何かがあった。この人は、と唸りたくなるほど、彼にとってその表情は反則だった。ジルアートの心を強く掴む、無防備なそれは。

 堪らず、ぎゅうっと強く、胸に仕舞い込むように抱きしめる。


「わっ、ジルアート?なになに、」


「サクラ」


「うん?」


「………サクラ」


「はい」


 あなたが好きです、と囁くと、間近にある耳が一気に紅潮した。

 それでも構わず、ジルアートは続ける。


「………何度だって言う。あなたが好きです。………愛してる」


 びくり、と反応した櫻の理由を知っている。強く抱き寄せる。………知っていて、いつも目を逸らしていた。彼女から逃げるように。

 ………けれど、あの悪夢のような日々はジルアートに大切なものを齎した。

 闇に沈んだような、毎日。

 自問と自答を繰り返し、繰り返し………そうしていつも同じ答えに戻ってくることに繰り返しだったけれど。

 今日、空の寝台を見て愕然とした。雷に打たれたような衝撃と喪失感。

 他の男に触れられていた現実。

 目の前が嫉妬と怒りで見えなくなったことを、その理由わけを。

 ジルアートは正確に理解していた。

 

 櫻が動いている。笑って、声を聞かせてくれる。

 彼を抱く、二本のかいな

 それはこの世に、たった一人。

 彼女しか、持ち得ないものだから。

 ジルアートは目を閉じて呼吸を整え、真摯な様子で口を開いた。

 

「私が愛しているのは、あなただけです。私のアウラ」


「………ジルアート………?」



 この瞳に、笑顔に、影が差し込むことが許せなかった。

 たとえ自分のことであっても。

 不安にさせる原因である自分自身を斬り捨ててやりたくなる。


「こうして笑って傍にいてくれるだけで、私は神に感謝したくなる。………あなたが、何より大切だから」


 そっと身体を離し、顔を覗き込む。

 そこには涙を溢れそうに溜めた、瞳があった。


 ………もう、迷うことはないだろう。


「もう迷ったり、しないと誓います。もう、振り向いたりしないと。私がきっと、貴女を守りきって見せる」

 

 夜空のように澄んだ濃紺を宿した瞳は揺らがなかった。

 黎明を見つけた。

 それが全てだった。






 だから、どうか聞いてください。



 私の、全てを。






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