真実5
辺りのさざめきが、時を追うごとに激しくなり、不安や混迷を含んで重く沈みそうになってくるのがわかる。回廊は既に神官たちの行き来でごった返しており、足元は何かの書類だったと思われる紙が散乱していた。既に土に汚れてしまったそれは一枚ではない。辺り一面、散らばった紙やら屑やらで汚れているのにもかかわらず、本来ならば最もそれらを厭う性であるはずの神官たちは気にもとめていない様子だった。
いや、気にする暇もないと言った方が正しい。
神殿の内部は普段の静かさからはかけ離れ、人々が慌しく交錯し、混乱の状態に陥っていた。通路をばたばたと走り回っている神官たちは、披露宴のために集められて通常の数倍にも膨れ上がっているにも関わらずだ。
「どういうことだっ。突破された?!」
「人数調整のための関所なんて、もう無理です………っ!大量の人が押し寄せてきて、どこも片っ端から打ち壊されて侵入を許しています!」
「これ最新の収容リストですっ。ですがもう、間に合いません!」
「も、もう無理だよこんなの!」
「怪我人の収容を急げ!」
「今やってます!でも……っ、でも、もう、無理です!こんなにまだ………空にこんなに、デュークが飛んでいる。あれ、全部人が乗ってるんですよ、どうするんですか、こんなに………っ」
「食料の移送は完了したのか」
「それが先ほど、移送車が襲われたとの………―――」
神官たち自身も混乱の極みにあった。
同じ時をして、バースは駆け足気味で上司の執務室へと急いでいた。日に何度も届く密偵の報告の中から分別して必要な対処を指示し、難題を一度上司に報告として上げるのは、日常から変わらない彼の日課だ。だが今は、常と異なる尋常ではない数の報告と問題が彼のところへ上がってくる。密偵に探らせている事態の報告は彼しか受け口を作られていないので、どんなこともまずは彼の元へ入ってくる。
ほぼ非公式で、裏の情報ばかりが。
その日もいつもと同じように、数枚の報告書にまとめたものを、この日何度目かの報告として上司の下へ出向いている途中だった。既に半分狂乱ともいえる神殿の惨状にわずかに眉を寄せながら。
現状理解が遅く、指示の遅延を生じさせたりするから、このような状況を作り出すのだ。何事も情報の収集が第一。その先鋒を引き受けているという自負が彼にはあった。同僚といえど所詮は他人。ましてや神殿の神官などというものが、何よりも物の役には立たぬということを、彼はずっと前から知っていた。 騒ぎにも近い音を立てている部屋たちを素通りし、素早く奥の方へと進んでいく。ようやく人気が減ってきたというところで、バースははたと足を止めた。
ここから先、遠くに見える中庭に面した回廊を、少女がふらふらと歩いている。ぱちり、と現実を確認するように瞬いた瞳が、瞬時に細まった。端正な相貌は、無害そうなそれからがらりと色を変える。女の密偵は使っていない。このような場所を動けるのは限られた女官だけだというのに、彼女はその服装すら異なっていた。第一、気配一つ隠しもせず、誰かに見つかりそうな視界の広いあの回廊をふらふらと歩くなど正気の沙汰ではない。この第一級緊急時と定められたこのときに、慌てる様子も見せずうろついているなど理解できない。瞬時に対応を決め、バースは足早に背後から近寄って女の腕を掴み上げた。
「………っあ、………?!」
女の腕はあっけなく捕えられた。
「このようなところで何をしている。階級と役職を言いたまえ」
ぎり、とまた一つ力を込めると、女の腕は悲鳴を上げたように筋を張った。眉一つ動かさず、けれどバースは内心首を傾げた。おかしい。
女の腕には、密偵とも女官ともいえないほど筋力がなかったからだ。神殿に配置される女官であれば、最低限の護衛術と武術を仕込まれているはずだ。………どこぞの権力者に唆されて忍び込んだ、ただの愛人かもしれぬ。そう結論に至り、くだらぬことを、と知りもしない相手に呆れた。このようなことに人や時間を割いている場合ではないというのに。愚か者というものはどこまでも果てしなく愚かで考えが足りぬものなのだろう。
そう考えているうちに、女は身じろぎしてこちらを振り向こうともがいていた。バースは更に腕を捻り上げ、背後からのまま、動けないよう自身の身体に押し留めた。
………小さいな、と感心し、珍しい生き物を見るかのようにまじまじとその姿を見つめるも、その間、彼女は何かを叫んでいたようだった。バースの意識がようやくそれに向く。
「痛い、い、痛い………!放してよ!」
「だから階級と役職を言いたまえ。不審な点がなければ放そう」
このくそ忙しい時期と場所に、ふらふらと不審者ですというラベルを張ったような挙動不審なお前が悪いのだが、とバースは告げたかった。だがそれでも、懸命に女はもがく。
「知らないわよ、そんなの………っ」
そうだろうな、愛人が何の職を持っているというのか。侮蔑の視線で見下ろしつつ、小柄なその女に無駄だ、と口を開く。その間も必死にもがいている様子は、なんというか、愛らしい。小動物を捕まえている気分になる。
いや、そんなことを考えている暇はないと、バースは自制を働かせた。表情には出ていないはずだが、さて。そろそろ上司の下へ行かなくては、後でどんなことを言われるか。………努めて考えなかったことにして、尋問を続ける。
「この場所が、この神殿が現在グランギニョルで最も崇高な場所であることは知っているだろう?君が向かっていた先は、まさしくその中枢だよ」
「………はあっ?」
思い切り振り向いた少女の瞳がバースを射た。鷲色の瞳が、ぶつかるように激しく。
バースはその真っ直ぐな視線に息を呑んだ。きれいだ、とさえ思ったのだ。
「わたしはあっちから来たの!戻るところよっ」
指差す方向は、今彼女が進もうとしていた方向だ。だがあちらは神官の多くも立ち入りを許されていない禁区にあたる。ほぼ人とすれ違うこともないその場所には、上官の執務室やら彼自身ですら踏み込むことを許されない天上に近しい者とされる彼女の居室が存在するが、それは知らなくてもいい情報だ。
だからバースは眉を上げるに留めた。不審すぎる。
「あちらから来たはずがないだろう。私は君を知らない」
「私だって、あんたのことなんか知らないわよっ!」
きっと睨みつけてくるその姿は、まるで野生のリスを捕まえたような心象だった。なんとも生意気だが、可愛らしくもある。狙いによっては説得してみるか、という程度には、彼の触手が動いたのだ。
はーっと大袈裟に嘆息する。
「どのような者から唆されて来たのかは知らないが、勝手に立ち入ると問答無用で斬られるぞ」
「………え?」
「言っただろう。この先は、立ち入るものを選ぶ区域だ。君のような女性が容易に足を踏み入れることができる場所じゃない。不審者として見つかれば、その場で警護のものにばっさり斬られるか、神官なら術で動きも声も封じられるか………死か拷問だ。そのどちらかを受けたいのか?」
「………そんな、だって-――」
力の抜けた女から、慎重に戒めを解いてやる。華奢な肩が衣からかすかにはみ出ているのが艶めかしい。いらぬ色気だ、と思いつつ、女の腕を放さずにこちらへと身体を向かせる。
「私に見つかったのは、不幸中の幸いだな。私は今とても忙しい。斬るのも術を使うのも時が惜しいほどに、な」
女ははっと顔を上げた。色の白い、小柄な女。バースの知る女の中でも、一際小柄で華奢な女だといえるだろう。だが幼い印象はない。
「誰に言われて来た?あの様子でうろついていた所から察するに、お前はただ命じられてこの神殿へ来たのではないか?」
女は迷ったふうに口を閉ざし、意を決したように話し出した。
「………本当にわからないの。ここは神殿なの………?私、普通のお邸にいたはずなんだけど、気がついたらここにいて―――」
ここがどこかもわからなくて、と潤み始めた目に、バースはぎょっとした。
彼女の言い分が本当なら、どこかから拉致されてここへ運び込まれたということになる。なんということを。と、瞬時に候補者を脳裏に上げるが、それはすぐに目の前で泣きそうな女の姿にかき消されてしまう。
「な、泣くな。泣いても無駄だ。第一、私には職務が―――」
バースは焦りすぎて自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。ただ女はぐす、と鼻を啜ってこちらを見上げる。
ああ、そんな顔をするな、泣かずとも私が―――言いかけて閉じた口を、心底褒めてやりたい気分だった。うっかり両腕が女を支えてしまっていたが。え、と驚いた女がそれに目をやるのと同時に、バースは更に慌てた。この辺りが冷静沈着という形容を彼に許さぬ由来である。
「いや、しかし………待て、落ち着け俺」
「あの、腕………」
「わかっている!そう、ここへは仕事に来たのであって、誰かにうつつを抜かしに来たわけでは―――」
「とにかく、ここはどこなの?」
「そ、そうだったな。被害者というなら話は別だ、私の上司にそ、」
相談しようという言葉は、複数の大きな足音によってかき消された。
ぎょっとバースが振り向くと、そこには鎧を纏った警備兵がずらりと並んでいる。ふとその向こうを見れば、その群れも同じようにこちらへ向かってきているように見えた。
きょとんとした女の背後からも同様に。まるでバースが不審者のような扱いだ。驚いている間にも、みるみると警備兵が四方八方から二人を囲む。
気づけば自然と、バースは女を背後に回して庇っていた。
「な、何の真似ですか。まるで不審者のような扱いはおやめなさ―――」
言い終える前に、回廊に溢れていた警備兵がざっと道を割った。その向こうからは軽い足音が聞こえてくる。訝しげに見遣ったバースは、その足音の主が赤い髪の青年であることに気づき、再び首を傾げる。
必死な形相で近づいてくる彼は、死んだように眠り続けるアウラの傍から片時も離れることのなかったジルアートにほかならない。確かに警備兵の統括は彼の管轄内だが、それらを動員してまで何を―――その心の声は、次の瞬間ぴたりと止まった。目の前まで近づいて来た彼は、ぎん、と殺しかねない視線でバースを射たのだ。激しい息遣いが、全力でこちらへ走ってきたことを示している。
ジルアートは無言のまま、怒りを掌に集めたかのように熱を持ったそれで、思い切り彼の肩を強く押しやった。
バースはあまりの無礼な態度に二の句が告げなかった。位はジルアートの方が上であったとしても、この男がこのような不躾な行いをしたことに驚いたのだ。強い力で押されたため、ふらりと身体が揺れて、たたらを踏む。
驚きは、そこで止みはしなかった。
冷静、沈着、無愛想。ついでに若く、美しく、氷のような視線を向けてくる印象しかなかったジルアート・カストル・キルセルクは、バースを押しのけ勢いよく背後にいた女を抱きしめたのだ。
「んなっ?!」
ぎょっと肩を上げたバースは、さらに息を止めることとなった。
「ジルアート?」
抱きしめられた瞬間驚きで息を呑んだものの、すぐに抱擁に応じた女はすらりとした両腕を青年の背に回す。
「探しました………っ!本当にどこへ行かれたのかと………っ」
掠れて振り絞るような声に、バースでさえも動きを止めた。心の底からの叫びのようなそれに周囲は一歩も動くことができないでいた。
ぎゅううう、と強く強く抱かれた女。一心不乱に抱きしめる青年。
え、え、と何度もうろたえたバースはようやくそれらの符号にぶち当たった。ぶち当たったというより、ぶち当たって驚愕にそれを破壊さえしてしまった気もするが。
剣の主が必死になって探していた女性。
そんなもの、一人しかいないではないか。
「私のアウラ………!」
それを聞いた瞬間。
バースは驚きのあまり絶叫した。