真実4
数日後、アウラは眠りに就いたまま、ジルアートの付き添いの下にウィスプランド最大の神殿へと移送された。この神殿はウィスプランド中央にひしめく権力の中枢に位置しており、櫻は中でも最奥の部屋へと移された。本来であれば披露宴までの間の滞在ができるようにと整えられた居室である。セ・ラティエのそれよりも広大で装飾の多い室内の更に奥の寝台に、櫻はジルアートの手で寝かされた。
ジルアートはここしばらくそうであったように、今日も陰鬱な面持ちだった。白い肌はやや青みを帯び、頬は肉がそぎ落とされたようにほっそりとしている。薄い唇はかすかに乾き、言葉を発する機会も少なくなった。ヴィスドールの訪れはあれ以来なくなった。それでも闇が、夢が、血がジルアートを追い詰める。
何度眺めても変化のない櫻の様子に、ジルアートはそっと、息をついた。………このまま、触れ合える距離にいられるならば櫻の目は覚めない方が良いのかもしれない。けれど、と。
そっと、指先で櫻の頬を撫ぜる。この瞳が開く瞬間を待ちわびている自分を抑えることはできなかった。どうか、と神に祈るように目を伏せて、人気がないのをいいことに、櫻の傍らにぽすんと上半身を預ける。甘い匂いがジルアートの鼻腔を突く。………よく、知った香りだ。眠れない脳が穏やかに安らぐのを感じる。そうして再び目を伏せる。櫻自身の香りだ。………そう。この匂いに包まれることにいつの間にか慣れている自分がいた。見慣れぬ世界に召喚された、とずっと繰り返し思ってきたけれど、ジルアートが香りに慣れてしまうほど、彼女は傍に在り続けたのだ。誰よりも近くに。
心地よくて、まどろむようにうっとりと、ジルアートは隣で眠る櫻を眺め続けた。
「………わたしの、アウラ」
………わたしの。
呟いて、きゅっと唇を閉じる。
どの口が言えるというのだ。
そんなこと。
どのみち、櫻の目が覚めなければ披露宴は延期のままだ。既にこの状態で一週間は過ぎただろうか。………ジルアートは正確な日数を思い出すことができないでいた。彼女がジルアートを見て笑わなくなってから、彼の時間は止まったままだ。朝が来て、夜が来て、それが巡ってもただ、それだけだ。時間が動き出すわけじゃない。同じことが巡って、巡って、それでもジルアートの瞳に宿る夜空が朝を迎えることはない。
ジルアートはそっと、そっと櫻の手を取った。
温度の少し低いそれを、握り締める。柔らかい肌だ。
少し前まで、この身体を抱きしめて眠りに就いていたというのに。
―――………どうしてこんなに遠く、離れてしまったのだろう。
叶うことなら彼女の夢の中まで迎えに行きたい。傍にいたい。自覚してから尚更に、ただ焦がれるばかりだ。
「………サクラ………」
間近で眠る、愛しい人。
ジルアートはそっと、目を閉じた。
***
ヴィスドールは執務室で、疲労を滲ませる溜め息をついた。手には数枚の報告書。複数の場所に配置してある密偵からの報告書が上がってきていたのだ。状況は芳しくない。次々に上がってくる現状の報告は、どのものも似たような内容だったからだ。
それらを持ち込んだ人物は、冴えない表情でヴィスドールを窺っていた。まっすぐに切りそろえられた金髪は清廉さを醸し出しており、華奢な痩躯はすらりと高く、神官服を纏っている。多少地味で穏やかな相貌だが、びくびくと怯えているようにも見えるのが何よりこの男の残念なところだ。諜報をまとめる副官のバースである。
バースは上司が報告書に目を通し終わったのを確認して、口を開いた。
「………各地の報告によると、人々の混乱が始まっているようです。元々、アウラの披露祭の予定で、ウィスプランドには各地からの人の移動が既にあった後です。そこまでは想定内でしたが、今回の光柱の衝撃からか、アウラへの疑惑や保護を求める人々までもがこの地を目指して来ているという報告が上がっています。このままではウィスプランドは人的許容量を越えてしまい、暴動があったとしても対処しきれない規模に拡大する恐れがあります」
「神官はほぼここに集結しているはずだな」
バースは頷いた。この上司の下では一言一句、過ちは許されない。
「けれどそれだけでは、対応しきれないだけの民が流入してくると予想されます。実際に各地の報告が上がってきていますので、そこから予想できるウィスプランドへの移動は、神官の対処可能な規模を遥かに超えます」
神官の多くは”術”の使役が可能だ。よって武官のそれを一人で遥かに凌駕する。
そして、と続ける。ここからが更に問題だ。
「暴動などはあくまでも可能性としての範囲内ですが、食料や滞在地は確実に不足します。どう考えてもこのままでは、披露宴の前に到着した民によってウィスプランドが無法地帯となる方が早いでしょう」
急速な物価の高騰。街での不法場所の滞在。それらは人的許容量を越えることで同時に襲う。
ヴィスドールは報告書から目を離さずに確認する。
「想定できたのならば、なぜ止めなかった」
「法王に聞いてください」
言外に、最高位の対処の遅れをバースは示す。
各地に神殿から、人の移動は抑制できたはずだった。
考えて、ヴィスドールはこめかみを押した。
混乱とはな。
そして細めた赤い目が笑む。
―――機が自ら、こちらへやってくるとは。
「ウィスプランドに滞在中の貴族たちの多くは、近いうちに食料などの買占めに走るでしょう。遠距離移動の手段も限られてしまうと予想されますから、混乱は確実かと」
「………仕方ないな。法王からあらゆる商店に通達だ。神殿を通しての購入しかできないようにルートを変更させる。披露宴がすぐにでもできるなら行なってしまいたいものだがな」
「はあ………」
アウラが昏睡状態にあることは、既に神殿の者ならば誰でも知っている。バースは気のない返事をした。諜報活動をまとめるのに多忙な彼は、アウラに直接の面識がないためだ。それでも女性が昏睡状態に陥っていると聞けば、多少の憐憫の情は湧く。今にもたたき起こしそうな上司が恐ろしい。
ヴィスドールは狐のように目を細めて笑む。バースはその笑みが喜びを齎さないことを知っている。困ったように視線を逸らす。が、背筋は寒気で溢れていた。見た目は狐だが、鬼のように血も涙もないことは彼が一番よく知っている。
「起きてしまえば無理矢理にでも披露宴を行なって、すぐさまセ・ラティエに帰還できるだろうに………面倒なことだ」
「え、いや、しかしですね。アウラの安全は確保されますので良いですが、どちらにしても向かってきている民の流入と混乱は避けられませんが」
「知るかそんなもの」
「………」
これだ。バースが胃痛持ちのキャリアが長い理由もついでにこれだ。見えないように嘆息して、法王への上告の指示に頷いた。少なくとも食料と滞在地の確保。これだけは役立たずの法王にも働いてもらわねば困るのだ。混乱だけは避けなければならない。バースは神妙な面持ちで、けれど同時にこの部屋から開放される喜びを持って踵を返した。
そこへ、ああ、と思い出したような声が聞こえて振り返る。
「?どうされました」
「………あれはどうしている」
「あれ?………ああ、ジルアート様のことですか」
既に報告は上がっている。
バースは改めて向き直った。
「キルセルク家にはほとんど帰っていないようです。元々あの家には血族もいないでしょうから身軽なものでしょう。ずっとアウラに付き添われていると聞いておりますが」
「べったりつかず離れずか」
「そのようです。………自分で皆殺しにした血族の、記憶の残る家なのでしょうから、まあ………さして帰りたくもないのかもしれませんが」
バースの声に温度はない。どうでもいい情報だからだ、彼にとって。莫大な情報は常に動き、変化し続けている。彼の脳内に溢れる情報の中で、ジルアートに関わるものなど瞬時に消える。
ヴィスドールは頷いた。これで今日の報告は終了だ。急いで書面を仕上げなければ。
今度こそ、振り向くことなくバースは退出した。
***
何かが、動くような気配がした。
櫻は目を開く。………振り向いて、ここはどこだろうと首を傾げた。意識は眠っていた割にはっきりしていて、ディディエに眠らされたことまで覚えていた。視界に広がるのは、どっぷりと深い闇だ。あの時計塔ではなさそうだが、と考えて、櫻は身を硬くした。もしかしたら、また何かの夢を見ているのかもしれないと思い至ったからだ。ジルアートが法王の寵を受けている映像は、未だ生々しく櫻の中にその痕跡を残している。
だが、しばらく待っても一向に変化の兆しはない。足元に触れても、何の温度も感じない。あたりは暗いが、櫻は自分の身体を眺め、輪郭が見えることに気がついた。まるで……そう、まるで光の届かない、深海に来たように暗いが、かといって真の暗闇でもない。寒暖も感じなかった。
見上げても、見下ろしても、何も見えない。しばらく思うままに歩き続けてみることにした。そうして無言のまま、しばらく歩くうちに、前に向かうに連れてどんどん生暖かな空気が漂っていることに気がついた。冷水から温水に切り替わったかのような明確な温度の違いを感じたからだ。
足を止め、周囲に目を凝らす。するとずっと先に、小さな、小さな灯りが見えたような気がして、櫻は息を呑んだ。じっと見つめて確認すると、早足でその場所を目指す。
………一体、どのくらい歩いただろう。とても小さな光だったものは、明らかに光を放っていることがわかる程度には近づいた。ずっと見つめ続けていると、どうやらその光が点滅のように強弱を繰り返していることもわかってきた。信号のようだな、と思いつつ、再び櫻は歩みを進める。
疲労は感じないが、どこまでも同じように歩き続けることは存外飽きる。櫻は嘆息しつつ、その光を追っていく。そういえば、ジルアートやヴィスドール、パメニたちは心配していないだろうか。ディディエが言っていたように、この場所も時間の流れが違うのであれば、どの程度過ぎてしまったのだろうか。そう考えると焦りが滲む。………光はやがて、大きな人の形で横たわっていることがわかった。
暗い中に、たった一つのぼんやりと滲むような光。点滅を繰り返すそれに、櫻は恐る恐る、近づいた。
「………人………?」
応える声はない。だが、その光っているものは明らかに人だった。光る瞬間はとても明るく、櫻の目を焼く。その光は、まるで水中の空気のように、微かに散らばっていくものも見える。そうして、ふわり、ふわりと緩やかに身体ごと上下する。まるで光に包まれた人の形をしたものが、全身で呼吸をしているかのようだ。
おっかなびっくりとしつつ、人の形だとわかった櫻はそのすぐ横まで近づいた。光が眩すぎて、近づかなければ見えなかったのである。上下するそれに触れないよう、櫻は慎重にその人を覗き込んだ。
「………おとこの、人?」
声を出しても、やはり応えるものはない。動揺が落ち着いたのか、櫻は光るものの全身を見渡した。光に包まれてはいるが、礼装のような衣装を着た、すらりとした体躯。人形のような相貌。きれい、と息をついた瞬間、櫻はがばっと顔を上げた。きれいだと思う前に見知った顔だったからだ。
「えっ、ディー?!」
思わずがばり、とその身体に手を掛ける。光は櫻に移ることもなく、ただその青年の身体を包み、静かに点滅を続けている。眩い光の中にあったその青年の相貌は、まさしく先ほど見たディディエ本人の顔と同一のものだった。数度会った時計塔での金髪の青年とは違う。先ほど会ったばかりのディディエだった。
だが、ふと櫻は違和感を感じた。眉を寄せて青年を眺め……気がついて目を瞬かせる。髪の長さが違うのだ。ディディエは見事な銀髪で、しかも腰につくほどの長さだったのに比べ、この青年は、櫻のよく知る男性たちのように短い髪をしていた。もっとも、上下に動くたびにふわふわと靡くほどの長さではあったが。
―――………そして唐突に思い至る。
どくり、と嫌な動悸がする。
櫻は揺らいだ視線で青年を見下ろした。
ディディエは言った。”双子の弟”こそが、櫻が夢で見た”ミュゼ”であると。
はっとして、櫻は改めてその相貌を眺め見る。長い睫毛も、人形のような美しい肌も、ディディエとそっくりだ。けれど、どこか違和感がつきまとう。見れば見るほど、齟齬を感じるのだ。何よりディディエの銀髪とは異なり、この青年のそれは紛うことなき金髪だった。だとすれば、この人こそが………
この青年こそが。
「………ミュゼ………?」
口にした瞬間、ぶわりと櫻の中で何かが溢れた。思わず身を屈めてそれを堪える。わからない。何か正体のわからない感情の、波、だ。唇を噛み締めるように、それに耐える。急激な異変に不安にかられ、思わず櫻はジルアートの名を呼んだ。
それに呼応するように、青年を包んでいた光が段々と強いものに変わっていく。………そして。
勢いよくあふれ出した光の奔流に、櫻は呑みこまれていた。