真実2
―――時を刻む、音がする。
残された時間は、あとどれくらいだろうか。
うっすらと輪郭が浮かび上がる明度の室内で、男は静かに横たわる人を眺めていた。時など存在しないかのように、いつまでも眠ったまま。この部屋と同じだ。何も動かず、変わらず、そうしてただ、いつの日か朽ちるのを待つように、そこに在る。
寝台の傍に腰掛ける男の姿勢も長い間同じままだ。ただ、ぼんやりと、焦点もなく。けれど視線を動かすこともない。微動だにもせず、男は生きながらにしてそこに在った。………在るだけだ、というべきか。
物音一つしない。何物からも隔絶された異界のようだ。そこでふと、眠り続けるその人が、自分が想像することもできない場所から連れてこられたのだということを、男は思い出す。いつまで待っても見えることのない、あの柔らかな茶色の瞳を思い、
男は強く、目を瞑った。
“………わたしのこと、すき?”
傍に在ると誓った。いかなる時も支え、離れないと。
嘘ではない。
―――けれど、真実でもない。
虚構にまみれた関係に、手足一つ自由に動かせなかったのだと知ったら、彼女はどんな反応を見せるだろう。特別、目立つこともないけれど、こちらに垣間見せてくれる、あのあたたかい眼差しは―――変わってしまうのだろうか。
「………くだらないな。本当に」
人形のように昏々と眠り続ける世界で、彼女は今、何を思っているのだろう。
男の瞳に闇が走る。
………このまま。このまま目覚めることなく居てくれたなら。自分もずっと、ただここで、彼女と居られたなら。触れることもできない、その人の頬に、視線で柔らかく触れてやる。この手が汚れていなければ。絡みつく糸さえなければ。
そう思う自分の心は、否定できずにいた。
「………サクラ、」
そう呼んだのは、何回だろう。僅かな逢瀬のときにしか口にできず、すればするだけ胸に走る痛みが男を苛んだ。この闇の中で、何も知らずに少しずつ心を許してくれる彼女は、とてもあたたかかった。素朴で、当たり前で、普通の反応を返してくれる彼女。
それでも時折見せる眼差しは笑顔や愛撫に誤魔化されてはくれなかった。
ここにずっと………閉じ込めておけたなら。
そう思う自分には、同時に大きく深い矛盾も存在することを男は知っていた。
すでに決めた心がある。
違えることのできない呪いのような恋心。
生まれた時からきっと、それは定められていた。
「………アーチェ」
深い、深い闇に閉ざしてしまわなければならない。
………この、白い光のような、あたたかな恋は。
***
ヴィスドールが勢いよく扉を開けた先には、死の匂いが漂うような居室があった。眉を顰め、それを分断するように寝台の方へと歩み寄る。そこで目的のものを目にし、感情を感じさせない視線を傍らの男へと動かした。男は視線を寝台に向けたままだ。
予感は確信に変わっていたが、それはどうでも良いことだ。ヴィスドールは口を開く。
「こんなところで一体何をしている。支度は整いつつある。キルセルクから離れている時間などないだろう」
「………放っておいてくれ。やることはやった」
感情のこもらない声だ。ヴィスドールは表情を変えることはなかったが、久方ぶりだなと内心は眉を上げた。年齢の割に大人びて氷のような温度で話す様子は、ここしばらく見られなかったものだ。本人は意識していないだろうが。
そしてそれも、ヴィスドールにとってはどうでも良いことの一つにすぎない。若い目の前の男が恋情に破綻していくのも。しかしこれが自分の計画に関わってくるとなれば話は別だ。
「アウラの容体に変化はない。披露宴の延期は恐らく免れまい。早々にやらねばらなないことがあるはずだな?ジルアート・カストル・キルセルク。呪われた一族を継ぐ者よ」
………ジルアートはそこでようやく、視線を上げた。やや憔悴しているようだが、その眼光は暗がりでも鋭いことが見て取れる。それでいい、とヴィスドールは口の端を上げた。
「それが早々に起きてくれるというなら、お前に口づけでも子作りでもさせてやるが、そうもいかない。お前の役目を忘れるな」
びくり、とジルアートは肩を揺らした。
ヴィスドールはさも面倒そうに嘆息する。
「お前の望みは何だ。その女は贄だ、そうだろう?お前が守るべきはその女ではあるまいよ。美しくも哀れなお前の姉は赤い薔薇に埋もれ、ひたすらお前に焦がれて待ち続けているのであろうに」
「………黙れ」
「忘れてもらっては困る。剣の主。この世界は終わらねばらなぬ。その女は必要だが、それは贄としてのこと。これ以上の私情を生むな」
ヴィスドールは強い視線でジルアートをねじ伏せた。
「―――狂ったこの世界を、グランギニョルを粛清する。そのためには個人の情など些細なものでしかない」
ヴィスドールは一歩、また一歩と緩慢に歩みを進める。
ジルアートは見上げて睨み続けたまま。
「わかっている!」
「いいや、お前はわかっていない。ジルアート」
「私を侮辱する気か」
「ふん。この世界は狂っている。私のアウラはそう告げた。私も思うのさ、ジルアート。やはりこの世界は、狂っているんだ。このまま幾度時が廻ろうと、贄の女は現れる。私のアウラのように。そしてお前の一族の狂った慣習も、また巡る。お前の子供は、誰の腹から生まれ出ずることかも知れぬ。そうだろう」
「………っ、わかっている」
「何度でも言ってやろう。お前は何も、わかってはおらぬよ。ジルアート・カストル・キルセルク。恋情に溺れ、姉を愛し、切り離されたその女のためだけに生きる哀れな者よ。だが、お前の決定は間違ってはいなかった。揺れながらも愛した女を取るのだろう。それでいい。この世界は、終わるべきなのだジルアート。………故に」
ヴィスドールはジルアートの顎に指をかけ、持ち上げた。
「お前の裏切りは許さない。この世界を滅するため、お前にはアウラを切り裂く刃になってもらわねばならぬのだ」
ジルアートは思い切りその指を払う。
乾いた音がした。
「………っ、わかっていると言っただろう!出て行け!」
ふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らし、ヴィスドールは向きを変えて扉へと向かう。
叫んだジルアートに、正に手負いの獣のようだと囁いて。
ヴィスドールは扉に手を掛け、首だけ振り向いて微笑んだ。
「………すぐに、とは言わんさ。その女がアウラである限りはな。急ぐことでもない。せいぜい目が覚めたら蕩けるように甘やかしてやるといい。………だが忘れてもらっては困る。その女は、我等の贄であることを」
そう告げて、扉は閉じた。