真実
くるくると、羽が一枚落ちゆくように。
おぼつかない。不安定に。身体は言うことを聞かずに落ちてゆく。
まっしろな世界の中を、ただ、どうすることもできずに。
それはとても、あの日の私に似ていた。
***
ぬくもりはある。
なのに瞳が開かない。
周りの人間たちは機械的に言葉を紡いでは私を傷つけるだけ。目の前のこの人は、だって温かいのに。もうすぐその熱も引いて………ふはい、しょり?一体何のことを言っているのだろう。
だって、この人が私を置いてゆくはずがない。今の今まで、ついさっきまで私の傍で微笑んでいたんだから。
ねえ、そうでしょ?
だから早くお願い。目を開けて。
みんなに見せてあげてよ。早く、早く。
じゃないと、―――――
***
遠くで。意識の遥か外でした、小さな小さな、微かな音を、耳が拾い上げた。
………声だ、とわかった次の瞬間には、それが金切り声のような悲痛さを伴っていることに気がついた。どうしたのだろう、と意識を向けると、少しずつそれは近づいてきて、しまいにはそれが嗚咽を併せていることまでわかってきた。
………ああ、誰か。誰か、泣いてる。
そう認識するとほぼ同時に、間近で大きな自分を呼ぶ声がした。
明瞭に。
幾度も幾度も呼ぶ声。泣き叫んで、まるで赤子の我ままのような、声。
櫻はうっすら目を開けた。閉じていたのか、ということは眠っていたのか………と辺りを見渡し、すぐにその姿に行き着いた。
ぼろぼろと大粒の涙を零しながらこちらを見下ろす男の姿だ。
「………ディー?」
口を開こうとして、息を詰まらせてはしゃくりあげる。パールのような涙が、はらはらと頬を伝っては流れ落ちていく。そういえば、さっき見た滝に似ているとぼんやり思いながら、櫻は沈黙を守った。喋れないことはないだろうが、なんだかとても………動くことが億劫だった。口を開くことさえも。
視線が問いかけの意を含んでいることに気がついたのか、呼吸が整ったのか、しゃくりあげながらも目の前の男が口を開く。
「……っ、僕があれだけ気をつけなよって、言ったのに………!……ど、どうしてあんなトコに居たのさ……っ?!馬鹿じゃないの、ああもう……っ!し、死んだかと思ったじゃないか………っ」
やはり、目の前の男はディディエらしい。違和感もなくそれを受け入れて、けれどふと、気がついた。前の容姿と異なる姿だ。気性は以前と変わりがないが。
長い銀の髪。つやをたっぷりと含んだ長い髪が、惜しげもなく床に散らばっている。櫻が倒れているこの床に膝をついてしまっているせいで、その髪は美しくも無残に木製の床に広がっているのだ。瞳は濃紺で………まるで夜空の色だ、と思い、その瞬間にジルアートを思い出した。あの時も珍しい瞳の色だと思ったが、ディディエのそれと酷似している。
煌びやかで豪奢な衣装は、まるで舞踏会にでも出るような出で立ちだった。その姿を微塵も気にすることなく、ディディエは泣きながら馬鹿、と何度も言葉をぶつけて来る。
………何度も、何度も。痙攣のようにひたすら肩を震わせながら。
櫻は目を細めて少し笑って、重い身体を動かし、ディディエの膝の上で握り締められた拳に手を乗せた。びくりと震えたそれは、けれどそっと開かれて櫻のそれを握りしめた。開かれた拳の中、掌がうっすら血で滲んでいたことに、櫻は内心眉を顰めた。それに気付かず、ディディエは良かった、と吐息を吐きながら櫻の手を大切そうに両手に抱く。
「………ディー?今日は随分、派手なのね」
「そうだよまったく。パーティーを途中で抜け出して駆け付けたんだ。こんな格好、君には見せたくなかったのにさ」
ディディエは涙の残った目尻のまま、薄く笑んだ。
櫻も自然とそれに応える。
「格好もそうだけど、派手な髪の色じゃない………」
「よく言うよ。ありふれた金髪の方がよっぽど派手じゃないか。派手なのはこの衣装の方だよ」
「うん………そうなんだけど………不思議だよね。その姿がディーだってこと、すごくしっくりくるの。まるで前から知ってたみたいに」
「………そう?」
「………うん」
「じゃあ、それでいいんだ。君は僕を知ってる。それだけ、わかっていればいい」
ディディエは目を伏せて、静かに笑む。
その姿が儚げで、櫻は口を噤んでしまった。
しばらくの沈黙の後に、ふと、自分が光柱の直近にいたことを思い出す。
「………で、私、生きてるの?」
ディディエは頷いた。
「生きてるよ。僕が警告のアラームに気がついたからね」
「アラーム………?」
ディディエの話はいまいち理解できない。
何のアラームだというのか。
「君を危ない目に合さないために決まってるじゃない」
呆れたように答えたディディエは、頬にかかった髪が鬱陶しかったのか、ばさりをそれをかきあげた。色素の薄い、白い肌だ。
「僕が飛び込んで、すんでのところで座標を変えた。だから君は生きている。生きているけど………少し、あちらが心配かな。随分時間が経ってしまっているはずだから」
「そんなに寝ていたの?私」
「いや?あまりに近づいたものだから、その衝撃で意識が飛んでいるだけだよ。怪我もないはず。だけど覚えているかい?いつも、この場所に来てもいられる時間が短かったはずだよね。ここはグランギニョルと時間の流れの早さが違う。あちらでは随分な時間を寝こけていることになっているはずだよ」
「………え?」
気にした様子もなく、ディディエはせっせと櫻の手を擦り合わせている。冷たくなっている手を温めてくれているのだろうか。
「まあ、別にいいけどさ。でも君、もうすぐ披露宴だったんじゃないの」
あちらは大騒ぎになっているだろうね。意識なし。昏睡状態だもの。
あっけらかんと告げられたことばは、徐々に櫻にはっきりとした意識を呼び戻してくれた。思いもしない事態に頬が引き攣る。そもそも、黙って邸を出てきたというのに、光柱のすぐ近くで倒れていて、なおかつ意識が戻らないなんてどんな顔で皆に会えばいいというのか。
「それぐらいは仕方がないよね。まあ、僕を心配させた罰だと思って受け入れたら?」
今回だけは、本当に肝が冷えたよ。
そう言って、ようやくディディエは力を抜いたらしい。尻もちをつく形で後ろに倒れ、ふーっと長く息を吐いた。よほど心配してくれたのだろう。
思って、櫻は眉を寄せた。
「………ねえ、どうしてそんなに、私を心配してくれるの」
面識なんて、あるはずもないのに。
あの一度の時間だけ。向こうは櫻を知っていたようだが、それはない。
櫻は何も知らない。ディディエのことも、グランギニョルのことも。
「………僕は知ってた。ずっと見てたよ」
ディディエはそう苦笑した。子供っぽいわがままを言うような口調は相変わらずだというのに、そう告げた瞳は深い苦渋に満ち満ちているように見えた。その瞳の色に思わず見とれていると、ディディエは小さく微笑んで、首を傾けて櫻の頬に、キスをした。
色欲など微塵も感じさせない、羽のような口づけだった。
視線が間近で絡んで、櫻はその瞳の色に泣きたくなった。
ジルアートと同じ、夜空の色に。
無性に恋い焦がれてしまったから。
「………あいたい」
ぽつりと零れたことばに、ディディエは笑ったりはしなかった。
………誰に、とも問わなかった。
それが櫻には嬉しかった。
ジルアートに、とことばにするよりも、あの瞳の持ち主に、会いたくて会いたくて仕方がなかった。
深い、濃紺の色。光が射すと、まるで星空のように見えるそれ。
誰よりも愛おしい人の色。
ジルアート。
………そう思うのに、口にできない。
なぜだろう。思いつくのは彼の瞳だけだというのに、あの青年の名前が告げられないなんて。
櫻は自分に失望した。
それを救ったのは、ディディエだった。
「………会えるよ。近いうちに」
仰ぎ見ると、ディディエは悲しそうに笑っていた。
「大丈夫。………きっと、会える」
「………そうかな」
そう。この意識が起きたなら、きっとジルアートに会えるはず。それなのに、心の焦りは落ち着かない。
「それにもうすぐ、僕ともちゃんと会えるよ。アウラ」
「………ディー?」
また夢で呼び出されるということなのか。
「………次に会うときは、ちゃんと会える。だから会ったら、ぎゅーっと僕を抱きしめてよ。僕はもう、寂しくて寂しくて、死んじゃいそうなんだ」
約束だよ。寂しいのは僕も同じだ。
まるで兄弟のようにディディエが言うので、櫻は小さく笑った。
「………ディー?」
笑みが壊れてしまいそうに危うく感じて、櫻は問う。
「………本当は、会えない方がいいのかもしれないけど、ね」
もう少しおやすみ。
ディディエがそう囁くと同時に、櫻はふんわりと心地よく意識が遠くなるのを感じていた。
「ディー………?」
「ああ。此処にいるから」
…………今はもう、おやすみ。