アジェリーチェ7
………起きた出来事を、後になって遡って考えてみると、どうしてあの時気付かなかったのだろうと後悔するほど、きれいな道筋ができているときがある。
いつもより早く目が覚めたり、予定していた時刻より早く物事が進んだ時。喜びよりも何か失敗しているのではないかと不安になることはないだろうか。今、この時の安寧は、後に待ち受ける困難や不幸と引き換えなのではないかと。
薄ぼんやりとしたそんな不安が的中したとき。
後ろを振り返って、見事なまでに、この不幸までの道筋が完成していたのだと気づいたとき。その足跡が、紛れもなく自分のものであり、その足で踏みしめてきたのだと、気がついたとき。
………そんな時、心の底が抜け落ちたような感覚―――虚無感に襲われるのだ。
絶望という名の、深淵を覗き込みながら。
***
どこまでも―――― そう、あたたかく、やすらかな掌だった。
光の洪水に呑まれてなお、あなたの手だけが私の導きだった。
甘やかな視線と、絶対的な安心感に、私はただ、身を任せていただけ。
―――― そんなことは、絶対に続きはしないと知っていたのに。
***
朝、いつもよりずっと早い時間に目が覚めた。
まどろみもなく、唐突に、まるで回路を切断された機械のように、弾かれたように体が起きた。
すぐに異変に気づく。咄嗟に頬に触れた手が濡れていた。
涙だ。
「…………なに………?」
ひんやりとした空気は、まだ朝も早い時間だと告げている。
身を起して、櫻は内心首を傾げた。パメニの気配すらしないこんな早朝に目が覚めた自分が不思議でならない。ましてや、こんなに気だるさのない身体。
――― まるで急いで起きろと急かされているかのように。
そこまで思って、つと目を閉じる。夢でも見ていたのかもしれない。あの、不可思議な。ミュゼに会うような夢ならば、強烈なまでに櫻の記憶に根付いているはずだった。だがそれも感じない。けれどどうにもベッドの中で過ごす気になれずに、手早く身支度を整えてテーブルの林檎を少し齧った。清々しい冷水はシェバトの言付けだろうか。そう思うも、窓の外が明るくなってきたのを尻目に慌ただしく外へ出る。
なぜか、そこには衛兵すらもいなかった。
沈黙が響き渡る、まるで死んだように………いや、眠りの中のような、そんな朝だ。
どくり、と心臓の鼓動が響き渡る。
なぜだろう。
頭の中からその言葉が離れない。心臓が妙に早く鳴っている。
急がなければ。
―――……けれど、どこへ?
外に足を踏み出した瞬間、はっと櫻は彼方を仰ぎ見た。
胸騒ぎは止まらない。
陽が昇りかけているというのに音のしない屋敷。
櫻は震える手を胸のあたりで握り締めた。身体は冷気に覆われて、しんなりと冷たくなってきているが、それすら厭う余裕もなかった。
沈黙の朝。
「………なに………なん、なの………」
自答するように口にするが、言葉も考えも何も浮かばない。無暗な恐怖が背を辿るだけだ。
パメニを起こしに行けばよかったのか。
そう脳裏に浮かぶが、けれど足は速度を緩めることなく木製の階段を駆け下りていた。
頭ではどこかでわかっていた。はっと、白い息を吐き出しながら前を見据える。
それは、今行うことではないのだと。
………どこだろう。どこへ行けばいい?
引かれる。心が。急速に………あちらへと。
櫻はふらりと駆け出した。踝ほどの丈もある薄いドレスがひらりと翻る。
低い木々の中を、ひたすら走る。不思議と気分は高揚し、疲労を感じない。櫻は目を大きく開いて、野生の馬のように駆け抜ける。華奢な足が、草木を踏みしめる音がする。
空気が櫻の全身を爽快に撫でてゆく。はっ、はっと呼吸音が聞こえ、大気のざわめきまでも全身に響いているかのようだ。
―――この向こうに、何があるというの?
走りながら、櫻の瞳は近く開けるであろう視界に思いを馳せる。この道は、パメニと早朝に馬で足をのばした時に通った道だ。………いつの間にか。まるで回廊のように、櫻の両側には、小さな木々の合間に背の高い木々が立ち並んでいる。一直線に並ぶその様子は、どうみても櫻を促すようにしか見えないのが不思議だった。
そしてもう一つ。
駈け出した直後から消えない予感。
一つの男のシルエット。
(…………ディディエ………ディー………)
ディディエ・ミュゼ。
夢の中で一度会っただけのあの男が、また現れるような気がしていた。
正確には、あの男を見たときに感じたぞわりとした焦燥感と言ってもいい。
何かを忘れているような。それでいて知っていはいけない禁忌のような。
呼ばれている。誘われているとすら感じていた。整った相貌に浮かぶ悪戯好きの笑み。それがはっきりと、櫻の脳裏を刺激していた。
(何なのよ…………っ)
転がるように、勢いよく櫻は狭い空間に飛び出した。今まで身体中を巡っていた熱い吐息が吐きだされる。が、疲れはない。ふと、立ち止まって辺りを見回してぎょっとした。
ここは一度だけ訪れた赤い滝が流れると噂の地だ。馬の足で赴くような遠い地まで来てしまったらしい。さして広くもない木々の生えていないスペースを、櫻は急いた心持ちで進んでいく。
泉の音が聞こえ始め、ようやく隠れるようにあったその場所が視界いっぱいに開かれたその時。
櫻は息を呑んだ。
………血のように。夕陽のようにというべきか。
紅い。紅い色の水が滝から滔々と流れ出でていた。
水のつややかさを保ったまま、泉は色が染まってもきらきらと光を反射している。
泉が受ける水を溢れさせているのは、上空に浮かぶ小さな小さな島だ。水源の仕組みは不明だが、その島の岩の隙間から零れ落ちる水流―――それは、清らかに透明さを保っていた。
その時、櫻の目に強い光が射しこんできた。太陽の光だ。眠りから覚め、空にようやくはっきりと浮かび上がった太陽は、昼のような金色をしてはいなかった。その色は………まさしく、滝そのものの色だ。流れ落ちる水流に紅い陽光が透かされて、このような色に見えるのだ。
まるで炎のように。
けれど櫻が目を離せなかったのは、滝そのものではなかった。
紅い滝の元に、小さな光があったのだ。視線は真っ先にそこへ吸い込まれて離れることもない。
こちらに気づくこともなく、祈りを捧げる後姿。
蜂蜜を溶かしたような金髪が波打って地面に広がっているのを気にもせず。華奢なはずの肩は淡いレースに包まれていた。………巫女のように、その装束は真白に統一されていた。
不思議な滝に祈りを捧げる姿。人気のないこの場所で、沈黙の溢れる空気の中で微動だにしないその女性は、とても神々しく櫻の目に映った。
さくり、と柔らかな草を踏みしめる音がして、女性は振り返る。
濃紺の大きな瞳をまたたかせ、櫻の姿を認めると、一瞬の驚きの後に頬を緩ませて微笑んだ。
「………この滝は、想い人を現わしてくださるのだそうです。祈りを捧げれば、必ず会えると」
足元を軽く払い、女性は上品に礼をした。
少し残念そうに。
「お久しぶりです。あれ以降、お目にかかることがなかったので、少し残念に思っていたのです」
櫻はまだ現実に戻れない感覚が全身を支配していた。
ぼんやりとお辞儀を返す。
「………なぜ、あの泉に」
掠れた声は、かろうじて女性に元に届いたようだった。
挨拶を返さない櫻を気にした様子はなく、頷いて返してくる。
「朝、とても美しい滝の様子が見られると聞き、一度この美しさを知ってからはほぼ毎日ここへ通っています。この泉の色は、朝のほんの僅かな時間しか見ることができない貴重なものなのです。………この時ならば、もしかしたら本当に願いを叶えてくれるのではないかと………そう思って」
結局は、現われてはくれませんけれどと苦笑する。
女性はそう告げて、ことばを呑み込んだように俯いた。長い睫毛が天使のような瞳を影で覆う。それだけで、願いを叶えない泉が罪であるかのように感じる。
櫻はディディエの影への不安を振り払いきれず、微かに首を振った。
「………あの?」
その様子を見た女性は、困ったように首を傾げた。
………その瞬間。
櫻の脳裏はスパークしたかのように破裂の感覚で満ち溢れた。
――― な に か 、 く る
「離れて…………っ!!」
手が届くほどの位置まで歩み寄っていた女性は、櫻の悲痛な叫び声に全身を震わせ、そして何かに気づいたようにゆっくりと、後ろを振り返った。瞬間、光の刃が大地を殺す。
突如、真白な太い光が天上から降り注ぎ、泉ごと辺り一帯を突き刺したのだ。
泉をぶち抜き、木々を消し去り、女性のすぐ後ろまでも光が及んでいるのが見えた。
だめだ、間に合わない。脳裏にそう浮かんだ。
次の瞬間。考える暇もなく、一面が光の波に呑まれ、櫻の意識は反転した。ただ、“ああ、そうか”とわかったことが一つだけある。これが。これこそが。
――――― 五つ目の、光柱である。
ここからは少し、連続で更新します。
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