アジェリーチェ5
後半、やや表現が過激です。
各自ご自身でご判断を。
新鮮な空気の中で、まるでお伽話にでも迷い込んだような体験をした櫻は、ふわふわとした浮遊感を持って邸に戻った。傷んだ箇所などまるで見つからない、つやっつやの水分たっぷりの髪。綺麗だったなぁと思う。櫻は女だが、あのしっとりしていそうな艶やかな肌に触れてみたいと思ったくらいだ。
彼女の輪郭を思い描きながら体を洗う。これはちょっと切ない作業でもあるが。
胸だって貧弱ではないし、それなりの努力で体系維持はしているつもりだけれど、彼女の隣に立つには到底分不相応だろう。………あんなにふんわりとなんて、笑えないし。櫻はかすかに自嘲して、口元を歪める。ここは浴室。誰も入ってくることはない。
湿気に満ちた白い部屋に、水滴が落ちる音が響いた。
ごろり、と浴槽に身を沈めて、少し熱めの温度に息を吐いた。朝入る浴室は、ガラスから差し込む光がとても眩しい。気づくと何度もふうと息を吐いている。
今日も、あの青年は櫻を訪ねて来るだろう。いつも慌ただしくて、挨拶もそこそこに退室してしまうのに、そのためだけに1時間以上も馬を駆ってきてくれているという。ジルアートはそんなことを一言も口にしないで、目が合えば嬉しそうに目を細めてくれるのだ。
(それなのに、私はちっとも信じてあげることもできない。信じることしか、できないのに)
櫻はうんざりして目を閉じた。自分の矮小さや卑屈さが恨めしくて仕方ない。
信じることができないのは、怖いからだ。信じて裏切られ、櫻自身が傷つくのが怖いからだ。あの胸に抱きついて、深く唇を重ねてほしいと女の性が叫ぶ。それなのに、櫻の指は、凍ったように冷えて動けない。動かないのだ。あなたはどう想っているの、と切なく目を伏せて、自分の性が女であることを意識せずにはいられなかった。………本当は、寂しい。疑念に心を傷つけて、悩んで、そうしている間にも、会いたくて仕方ない。寂しくて、悲しくて、抱きしめてほしいと心が叫ぶ。
(………本当は、考えなくちゃいけないことはたくさんあるのに)
ヴィスドールや他の神官たちが準備に追われている披露宴。これはまだいい。儀式にでも出て、披露宴ではニッコリ微笑んでいればいいのだろう。祭が終わればセ・ラティエに帰る。そこでアウラとして長い間、務めていく………それもいい。承知したことだ。
うっかりしている場合ではないのは、それより差し迫った他の事だった。
―――ディディエ・ミュゼ。
夢の中で会った青年は、ディディエ・ミュゼと名乗った。あの時脳裏はアジェリーチェとジルアートのことでいっぱいだったが、それでもあの青年は櫻に神託を残して行った。
『もうすぐ、5つ目の光柱が落ちるよ』
――― 光柱。
六戒の具現だ。まさに断罪の証。ヴィスドールは見たことがあるというのだから、幾度か近年になって落ち始めているそれ。今まで一度も破られなかったことが不思議な罰も多いが、櫻の常識とは違うということなのか。
近年の罪は――― 血潮の涙。アジェリーチェの涙。ラゴンの断末魔。
この度の光柱は“ラゴンの断末魔”であるという。
一度、夢見の後にヴィスドールに話を振ったことがあるが、この罪が犯されたことを知っているのはアウラ(櫻)周辺の人間と、神殿の上層部に限定されるという。ヴィスドールは簡単に“ラゴンの断末魔”について口を開いてくれた。隠す必要を感じない情報なのだろう。
ラゴンという聖獣は、ある日突如櫻を襲った怪鳥のことだ。「あんなデカい怪鳥を他に知らん」とヴィスドールは鼻で笑ったが、櫻は全く笑えなかった。
なぜあの日、櫻を襲ったのかはわからない。アウラである櫻を襲うなど、何の意味があるというのか。神託者がいなければ、この世界は成り立たないのに。
湯気に溶けかけた櫻の意識は、とろり、とお湯に浸りそうな………そんな心持ちになったその時。櫻は勢いよくがばっと身を起こした。冷えた縁に腰かけて、どくどくと煩い心臓の音に身を屈めた。
鼓動がうるさい。一瞬にして浮かんだ考えを捕まえたくて、櫻は頭を振った。
(私、さっき何を考えたの………“神託者がいなければ、この世界は成り立たない”?)
アウラはグランギニョルの神託者だ。神の神託をその身に受け、グランギニョルを繁栄させることのできる異世界の人間。アウラはこの世界において、崇高なる存在として君臨し、あらゆる民の祈りを受ける。いわば神の代理人だ。
(…………でも)
世界を滅ぼすは「六戒」の侵犯。
フィシシッピの矢。
エメドの戦。
血潮の涙。
アジェリーチェの涙。
ラゴンの断末魔。
最初の二つがいつのものかはわからないし、記録としても曖昧だから前後は不明だが、おそらく時系列順にいけばこの通りだ。……ああ、アジェリーチェの涙と血潮の涙が前後するかもしれないが、大方の流れはこのようなものだろう。ジルアートの年齢と、ドレスを作りに行った店の店員がキルセルク家のことを知っていたから、血潮の涙よりは後ではないかと思う。
とにかく、これに“アウラの慟哭”が追加される。これで「六戒」だ。預言書だけでなく、ディディエとは性格の違う同じ容姿の青年が告げていたのも同じだから、恐らくこれに違いはない。
(意味は……神に弓引いてはならない。戦をしてはならない。聖獣を殺してはならない。伴侶を殺してはならない。近親相姦もだめ。…………じゃあ、)
「アウラ、は」
櫻は震える声で言いかけて止めた。言葉は何かを縛るような気がして、急に恐ろしくなったのだ。ぞっと背筋を駆けるものがあって、再び浴槽へと身を沈める。両腕で身体を抱きしめて俯いた。
(“アウラを殺してはならない”っていう、罪は………六戒にはない)
怪鳥が自分を襲った原因はわからない。けれどもし、あの場で不幸が起こったとしても光柱は落ちなかったはずだ。「死亡」は「慟哭」ではない。
アウラが死ねば、新たなアウラが招かれるはずだ。シェバトの話では、定かではなくとも今までは一、二年で降り立ったはず。櫻の場合は、五年かかった。
じゃあもし、と急速に頭が冷えてゆく。
法王との面会の際の襲撃。あれは結局、内部に手引きしたものがいるはずだとヴィスドールが言ったのにも関わらず、関係者は見つけられなかった。すんなりアウラの披露宴の行事に流されて、櫻も詳しいことは聞いていない。
考えろ、と警鐘が鳴る。もっと考えなければ。身を守るために。
………身を守るため?
いや、と櫻は自身を安心させるように強く否定する。
櫻が望むような結果でなく、仮に恐れていることは明らかになったとして――ジルアートが姉を未だ愛していたとして――、それでもジルアートはアウラの剣の主として、アウラを守るだろう。
それだけは、絶対だ。
彼を信じている。
(………大丈夫。それは、信じてるから)
櫻は未だ収まらぬ動悸を振り払うように、立ち上がって浴槽を出た。
***
濡れた髪を上げて、薄いワンピースドレス一枚で部屋に戻るとそこにパメニはいなかった。パメニは櫻が一人で部屋を出る時には必ず同行するが、それ以外は自由にしてもらっているから私用ででかけたのかもしれない。
窓辺の大きなソファに腰掛けて、用意されていた氷入りのアイスティーをグラスに注ぐ。冷えた具合がちょうどいい。砂糖はいれずに水のようにそれを一気に飲み干す。
「ふう」
「さっぱりしましたか。………ああ、こんなに髪を濡らして」
にょっと後ろから伸びてきた腕に、櫻はぎょっとしたまま捕らわれた。背後の声の主は腕で彼女の全身を絡めとり、首筋に口づけるように顔を押し当てる。
全身が戦慄き、硬直し………最後に脱力した。
嗅ぎ慣れた香り。聞きなれた声。
焦がれて、でも目をそらしていた男だ。
「……ジルアート」
「お待たせしました。私のアウラ」
ぎゅうっと強く抱きしめる腕を軽く叩いて宥めると、傍らの髪一房を指先の巻かれて振り向く。すぐに近づいた青年の唇に、櫻は反射的に目を閉じた。
触れるだけの、けれど久しぶりの口付けだった。二人きりの時間ですら、ウィスプランドに移動することになってからまともに取れていない。
「………ん、」
「………会いたかった。サクラ」
ジルアートの熱い掌が、櫻のむき出しの肩に触れて、ゆっくりと輪郭をなぞるように動き出す。
一度離れ、視線が絡むと自然に再びキスをする。………気持ちいい。
櫻は甘えるような声を出して、ジルアートは応えるように深く口づけた。
この部屋には誰もいない。パメニもジルアートが来たことで気を利かせてくれたのだろう。それにしても、随分早い到着だ。櫻がキスを続けながらうっすら目を開けると、そこには藍色の瞳が待っていた。目線が合うと、微かに目を細めてくる。穏やかな視線ではない。櫻はぎょっとした。
「………集中してませんね」
少し待って、と断って、ジルアートはソファの背をひょいと軽く乗り越えて、櫻の傍らに腰掛けた。あまりの素早い行動に、え、と櫻が目を瞬かせるのに構わず、ジルアートはやんわりと微笑を貼り付けたままの表情で顔を近づける。強く押しつけるだけのそれは櫻の唇を押しつぶした。「ん」と呻く声と同時に、押し付けられる力に抗いきれず、櫻は後ろに倒れてしまう。
展開の変わりように、櫻は未だ茫然と、身体を倒してのしかかってきた青年を見上げた。
「………ジルアート?」
「………少し、余所に意識がいっているようだから」
「そんなこ、と、な、……っ」
櫻の弁明を待たず、ジルアートは櫻の頭上に肘を付くと、再び深く口づけた。
覆いかぶさる身体は確かに彼が気を遣ってくれているというのに、重さは感じなくとも重なった表面がとても熱い。ましてや、櫻は風呂から出たばかりで、薄いシルクの布一枚しか隔てていない。ジルアートの熱くて生々しい舌に咥内を犯されながら、抗おうと両手で青年の胸を叩こうとするが、それより先に、感じる箇所を舌でなぞられてしまい、声が出る。くぐもったそれが聞こえるたびに、さらにジルアートは深く、深く、えずくような奥まで舌で舐め上げてくるのだ。舌の動きに全身へ快感が走っては身体が震えて身体が勝手に交わる準備を始めてしまうものだから、櫻は自身の羞恥を隠そうと必死になって身体を捩る。
ジルアートは全身を支えているのとは反対の掌で櫻の身体に触れていく。ピクリと反応しても、ゆっくりと辿って通り過ぎるだけだ。首、鎖骨、胸、腹の窪み、太腿まで通ってから、彼はその内側に触れた。太腿の内側を、掌を使って丹念に撫で上げ………そして櫻の片足を開いて見せた。
それと同時に口づけが途絶え、櫻は息も絶え絶えに、けれどまた続けられては話ができないと顔を逸らした。………首筋を露わにしてしまうことにも気付かずに。
ジルアートは開いたそこに吸い寄せられるように近づく。………ちゅ、と甘い音をわざと残して口づける。
「ジ、ル…ぁっ……?」
「………何か?」
応える声は変わらず優しいままに、ジルアートは知らないふりをした。櫻は、口づけられるたび、頬を紅潮させては甘い吐息を吐いてしまう。
「………ん………っ……あ、ん………」
「………そんな声を出すなんて。いけない人ですね」
囁いて。くす、と耳元で吐息で笑う。
びくりと反応する櫻を尻目に、れろ………と唾液に濡れた舌先で耳へ侵入しては蹂躙し、唇でやさしく外を食む。
だめ、と櫻がようやく視線を合わせようと見上げた時、ジルアートの両手は既に櫻に肩からドレスを落としかけていた。
あ、と力の抜けた腕のまま、赤い頬を隠せないまま、潤んだ瞳で見上げる櫻。
だめ、と言おうとして、激しく首筋に吸いついた熱い唇に櫻は甘く、仰け反った。ジルアートの熱い掌が、櫻の温度を上げていくのだ。
戸惑いもある。急に求められて驚いている。
………けれど一番はそれじゃない。
「ア………っ!」
胸に触れた熱い舌に、櫻は理性を引きちぎられる。
……嬉しかった。
求められて、嬉しい。
――― もっと触って、もっといっぱいにして。
焦らされて、焦らされて。
けれども視線だけは甘くやさしい男の策に、櫻は溺れた。
――― 真昼の情事は、夕陽に紛れるまで続いていた。