アジェリーチェ4
背の低い、細い幹の木々が生い茂る奥にその湖はあった。湖というより、少し大きな泉といったところか。「小さい頃は大きく思えたんですけど」と苦笑しながらパメニは敷布を広げる。それを籠を持って待っている間、櫻はぐるりと周囲を見渡した。
確かに、そこには滝があった。泉の奥は断崖のようで、その高さは首を上げても果てが見えない。ここから両側にぐるりと大きな崖が続いているのは、今まで平野ばかり見ていたせいか少し不思議な光景だ。なるほど、この崖の中でもここだけに滝があるのは、この見えない上方に、水を零す小さな島があるせいだろう。その水が溜まって湖……ではなく、泉ができているのだ。小さなその滝は、激しくなく、楚々と流しては泉に水を湛えている。
泉の周辺は柔らかな芝生のような草が生えていて、その一帯を囲むように木々が立ち並ぶ。分厚い樹木のバリケードのようになっているのか、入ってきた外側を見ようにも、視界は緑で閉ざされている。そのかわりと言ってはなんだが、泉の周囲は陽光が当たり、敷布が敷かれる範囲はあたたかそうだ。近くの泉の水面が光を反射して、櫻は目を細めた。
パメニの声が聞こえて、櫻は籠ごと敷布の上に腰を下ろす。
「滝、ちっちゃかったね」
一つ、大きなサンドイッチにかぶりつく。
女同士、こんなところで気を張って食べるものじゃない。
「あ、アウラさま、卵が。そうですねぇ、まあ、こんなものなのかもしれません。私も記憶と違って随分ミニチュアなのにはビックリしましたけれど」
パメニも同様に、遠慮なくサンドイッチを口にする。パンも硬くてボリュームがあるので噛むのも一苦労だ。
二人はしばらく、無言でサンドイッチを平らげることに専念した。小さな滝は水音をささやかに伝えてくれるし、直接当たる陽光は心地いい。この光に照らされて、段々周囲が温かくなっていくのを感じる。のんびりとして時間が止まったような、いい朝だ。
………噛みすぎて疲れた顎で、温かな茶を喉へ通したその時。
茂る樹木を揺るがす音がした。
びくん、と反射的に身構えた櫻は音のした方を見つめることしかできない。パメニは腰に備えてあった短剣を素早く抜き放ち、地に膝をついて低く構えた。
幾ばくかの物音の後、葉を揺らす音が近くなり――――
「ジーニャ!」
か細い女の声がして、二人は目を丸くする。櫻はその女の美貌に。パメニは小さな銀色の塊の素早さに。視界に銀と金の光が目に飛び込んできたのだ。
「…………ねこ?」
櫻は思わず口にするが、その間にも銀色の塊がこちらへ突進してきている。とても速いが猫だ。……白?あれは違う。まさに銀色の猫だ。その後を女が追いかけてくる。危なっかしく、何度か躓いている。
あっけにとられて動けなかった二人がはっと気付いた時、「あ」と猫は見事に地を蹴りサンドイッチの籠へダイブしていた。
* * *
「………本当に、申し訳ありません」
敷布の上で、女は深々と、地に着くほどに頭を下げた。豪奢な金色の長い髪が、白く華奢な肩を伝って零れおちる。一本一本がまるで錦糸のようにさらさらと、きらめいて落ちてゆく。
櫻は思わず見惚れてほう、と息を吐いた。次の瞬間慌てて意識を元に引き戻す。
籠に飛びついた銀色の猫が、櫻たちのサンドイッチを荒らして食べてしまったのだ。
「そんなに謝らないでください。気にしていませんから。まだ残っていますし、猫もお腹が空いていたんだと思いますし……ええと」
言ってから、失敗したと小さく顔を歪める。「お腹が空いていた」などと言っては、事実であっても遠まわしに「猫に餌をやっていないのか」と蔑んだように聞こえたかもしれないからだ。
パメニを見る余裕もなく硬直した櫻に、頭を下げたままだった女はゆっくりを面を上げて、ふんわりと微笑した。
天使みたい、と思わず櫻は頬を赤らめた。
この森の中、お伽話の主人公のように彼女は美しかった。小顔に豪奢な金の髪。透き通った肌はきめこまかく、小さな唇は苺のように赤く潤んで見える。長い睫毛はカールを描いて陶磁器のような頬に影を落とす。瞳は濃紺で、まるで夜空のようにきらめいて見えた。
身につけている薄いドレスはシルクだろう。白いドレスは彼女によく似合っていた。
傍らのパメニも彼女の容姿に釘付けとなっているのが手に取るようにわかる。
「本当にありがとうございます。ジーニャってば、突然走りだしてしまって。人さまの食べ物に手をつけるなんて………本当にいけない子」
女の足元ではぐはぐとサンドイッチ攻略を続けていた銀色の猫を女は抱えて、「めっ」と窘めた。屈んだ胸元から豊満な胸元が見える。華奢な体躯なのに、下品ではない豊かな胸。
櫻は女神だわ、と感嘆の息をもらす。
ここまで完璧な美貌だと、妬む気にもなれない。
再び顔をこちらに戻した女は、散歩の途中だったという。
「久方ぶりにこちらに戻ったので、お散歩でもしようかと思って外に出たのですが、ジーニャが走り出したのを追いかけていたら、侍女とはぐれてしまったようで」
聞けば、他の島に数年滞在していたそうだが、親類の計らいでこちらに戻ってきたということらしい。
「もうすぐお祭りですもの。ふふ、とても楽しみですわね」
朗らかに笑う彼女は、自分の容姿に頓着しているようには見えない。むしろあけすけで、外見の割に幼いような気もした。
櫻はそこまで思って、ふと首を傾げる。
「お祭りですか?」
「ええ。………まあ、ご存じないのですか」
目を丸くした彼女に、パメニは茶を渡す。どうせ料理長が作りすぎたサンドイッチは二人で食べきれる量ではなかったし、彼女にも相伴してもらえばいいだろう。櫻はサンドイッチも皿に盛って彼女に渡した。
「私たちも、他の島から渡ったばかりなのでこの島の世情には疎くて。あ、これ、私たちじゃ食べきれないのでよかったらどうぞ」
そんな、と心底申し訳なさそうに眉を寄せた女に、櫻は本当にいい人なんだなと感心した。美味しいですよ、とパメニが口添えすると、おずおずと女は櫻に視線を向ける。主人がどちらか、わかっているのだろう。もう一度、どうぞと促すと、女は丁寧に頭を下げて、いただきます、と礼を言った。本当に礼儀正しい。
「お祭りは、新しいアウラ様のお披露目のお祭りですわ。来週の終りに披露宴が催されるそうですから、その翌日からウィスプランドでは三日間、昼夜を挙げて大騒ぎなのだとか」
わたくしも、連れてきていただいた方に伺っただけなのですけれど、と苦笑して、サンドイッチを口にする。小さな口で入るのかと心配したが、上手に零さず齧っては、まあおいしい、とにこにこしている。
よかった、と自然に笑った櫻にもう一度笑みを返して、再び食事に戻る。パメニは二個目のサンドイッチを食べて、茶を配り終えたところだった。
「お祭り、か。………そんなの、あるんだねぇ。パメニ?」
ちらりと視線を向けると、パメニはう、と視線を逸らした。
私、その「アウラ様」なんだけど、という意図が二倍にも三倍にも重く圧し掛かったのだろう。
ヴィスドールにもジルアートにも、そんな話は聞いていない。
もしかして、準備に時間がかかるというのはこれのことなんじゃないだろうか。
「は、はあ。そうらしいですねぇ。あ、あははっ。あははは…………はあ。知っていました、ゴメンナサイ」
にこにこと無敵の天使の微笑にさらされて、パメニは苦しそうに喘いだ。
彼女に悪気がないのは明らかだ。
女は、フォローしようとしたのか、けれどと口を開く。
足元の赤いチェックの敷布が、彼女と一緒だとどうにもメルヘンチックである。
「お付きの方がお教えにならなかったのもよくわかります。アウラ様のお祭りですもの、今、グランギニョル中から大勢の人々がウィスプランドへ向かっているはずですわ。きっととても楽しいでしょうけれど、安全であるとは言い切れません。わたくしも、連れて行ってもらえるよう説得しているところですけれど、やはり良い顔はされませんものね」
櫻は氷のような視線を解除して、納得した。パメニのしゅんと落ち込んだ様子に、お茶を注いであげることにする。
なるほど。披露宴後は馬車馬のように働かせようというあの狐神官の思惑ではなく、単なる安全面を考慮してのことだったのか。三日間もあるのなら、その間にセ・ラティエに戻されることはあるまい。大方、どこかに引っこんでいろと言われるかもしれないが、どうにか説得して一日くらい外を見よう。ジルアートにお願いすれば、できるに決まっている。
そこまで考えて、はたとジルアートとの現状を思い出して瞬時に落胆した。
どこからともなく、お嬢様、と呼び声が続いて三人は顔を見合わせる。女はすぐに心当たりがあるのか、「おそらくはぐれた侍女でしょう」と立ち上がり、銀色の猫を両手に抱えた。
「それではわたくしはここで失礼させていただきます。温かなお心遣い、本当に感謝いたしますわ」
願わくば、またどこかでお会いしたいものです。
ふわっと口元に乗せた笑みが、櫻の胸を打つ。
上品だがどこか抜けたお嬢様。そんな印象の彼女は、グランギニョルで櫻が今まで会った女官たちのように、ひれ伏すことはない。アウラであることを隠せば、仲良くできるかもしれない、と櫻は思い、それがどれだけ難しいことなのだろうと歯噛みする思いだった。
「………また。また会えたら、今度はお菓子でも持ってきます」
まあ。とくりくりと目を丸くして、女は破顔した。
「それではわたくしも、その用意は絶やさぬようにしておきますわね。今度こそ、わたくしもお持て成しをさせてくださいな」
首をかしげてウインクすると、遠くの声が段々近づいてきたのに振り向いて、女は猫と共に去って行った。
朝の短い時間だというのに、やたら濃い出会いのある時間だった。
お腹は当然満たされたが、新しい友達を見つけた時のような高揚感までついてくる。
今日は、ジルアートにいつ会えるのだろう。
少しでも、心の内を話せるようになれればいいのだけど。
そう前向きに決意して、パメニと帰るべく支度を始めるのだった。