アジェリーチェ3
茫然と目を覚ましたあの日から時間が過ぎ―――
櫻は新たな地に降り立っていた。
花咲き乱れる花畑は地平に沿って緩やかに広がり、起伏のあるこの土地をどこまでも明るく彩っている。どれも見れば小さな花だ。それもささやかで地味な花だが、この地では一斉に色鮮やかに咲き誇って花の絨毯と化すのである。
櫻はこの地でアウラとして本来の産声を上げる。
ここは聖地。
―――聖地、ウィスプランドである。
櫻は今日も、一面の花畑に足を踏み入れに外へ赴く。ここへ着いてからの日課だ。たった三日しか経っていないはずのこの散歩は、既に櫻の日課だった。そしてこの日課は、必ずパメニと一緒にするのが約束事だ。傍仕えとして正式に任命された彼女は、今や女官としての清楚な衣装ではなく、動きやすく帯剣しやすい服装へと鞍替えしていた。さらにいえば、彼女はすでに「女官」ではない。今は櫻の護衛役も引き受けている。彼女が剣が使えると知ったのは、本当についこの間のことだった。
そのことには未だ慣れないが、すらりとした肢体の彼女にその衣装は似合っていると櫻は思う。
「今日はどちらの方角にいたしましょうか。アウラさま」
パメニがうきうきと足取りも軽く櫻に問う。
爽やかな朝だ。まだ陽が上がって間もなく、太陽に空気が暖められていない頃。二人は大きな籠をもって散歩に行くのだ。籠の中には、料理長が二人には多すぎるほどの量のサンドイッチを詰め込んでくれているはずだった。それから、日替わりのベリーをたっぷりと。とろける蜂蜜は木々から掬うように採れることも櫻は初めて知った。果物も、足りなければ木からもげばいい。今は川へ水を汲みに行くことも慣れたものだ。
………もちろん、この早朝の人気のない時間帯だけに限った話ではあるのだが。
木製の階段を降りる。その音さえもどこか温かみを感じるから不思議である。
櫻はパメニの持つ籠を楽しみだねと一瞥し、澄んだ空気を吸いながらぐるりとあたりを見渡した。この屋敷の近くは一定の距離を置いて豊かな木々が立っている。どの木も青々とした葉をたわわに茂らせ、陽光にあたってつややかだ。歩いている分には草地の面積が広く感じて森というには樹木が足りない気がしたが、デュークから降り立つ前に空から見下ろした景色では、この地は緑の屋根に覆われた一帯であったはずだ。この緑溢れる地を、櫻は今では大変気に入っていた。
披露宴までの準備にかかる二週間ほどしかいられないというのが非常に残念でならない。そうパメニにうっかりもらしたせいか、連日彼女が兄の元でぎゃんぎゃん直談判をしているのは邸では有名な話だ。披露宴は正式なアウラとしての披露目の名目だから、それが終われば早々に戻ってアウラとしての務めを果たさなければならないことは承知しているのだが、パメニの行動は止めないでいる。彼女は櫻の声の変わりのように、溌剌と明確に意思を述べる。そこがとても気に入っていた。
………ついでに彼女の嘆願が通って一日でも滞在が延びればいい、という目論見がないとはいわない。
「さて………どっちに行こうか」
思案顔で再びあたりを見渡すが、自然に満ち満ちている風景だが右も左も正面も、さほど代わり映えはしない。どっちに行っても、木や草や………木だ。
パメニは一頭の堂々として凛々しい馬を引き連れてくる。籠を馬の鞍に括りつけてから、指さして説明しだした。
「昨日はあちらのユフィの花畑、一昨日はカヤ蜜のある樹木まで足を伸ばしましたが……どうでしょう、今日は滝をご覧になりませんか」
「滝?」
櫻はパメニに馬に乗せてもらいながら問いかける。この付近はなだらかな隆起があるものの、一定した平地である。滝ができるような山や高地はないはずだ。
パメニは櫻の背に乗り込むと、問いを知っていたかのように頷いた。
「有名なんですよ、わりと。私も昔、小さい頃行ったことがあるんですが、さっき女官のおばさんに言われて思い出したんです。真っ赤な滝になる、不思議な滝なんです」
そこでいいですか、と問われて櫻は頷くと、パメニはきびきびと手綱を引いた。
早朝のお忍びの散歩だからこうやって自由に出歩くことを邸の者に見逃してもらっているが、それは限られた時間と範囲がもちろんある。早く目的地に着かなければ、早々に終わってしまう貴重な時間だ。なにせ、ジルアートさえ訪れる前の早朝なのだ。
………考えて、自然と視線が下を向く。
思うだけで、胸が重くなるような気がした。
「こんなところにどうやって滝が流れてるの?」
軽く駆ける馬上で櫻は尋ねた。髪が流れるだけの速度なら目を傷めることもないし、なにより清々しい空気が櫻の肺を満たす。マイナスイオンってこういうことなのね、と何度でも深呼吸したくなる空気だ。見上げれば、木々の隙間から薄い青の空が見える。今日も一日よく晴れそうだ。
「ちーっちゃい島が、湖の真上に浮いているんです。で、そこから落ちる水が、湖に落ちて滝になる、と」
なるほど。この世界に来てデュークに乗った時にも見たことがある。島と島の間を滝が流れて繋がっているのなら、浮遊する島とこの島の湖が繋がるくらい不思議はない。
「その滝、恋人たちの間で人気だって聞きましたよ。なんでもその湖に想う人を願えば、そこに現われてくれるとか」
「まさかあ」
「………意外とシビアですよね、アウラさま」
「それより早く、気持ちのいいところでごはん、食べたくない?」
「食べたいです!」
美人なのにこんなに色気より食い気、気合いたっぷりで大丈夫だろうか。櫻は真剣に思いながらも、やっぱりそんなことあるわけない、と否定した。先ほどのパメニの話だ。
湖に願って現れるなんて、くだらないお伽話。
それに縋って恋の終わりを見た恋人たちがどれだけいることだろう。恋愛の御利益があるスポットなんて、大抵は半分以上が失敗の思い出で満たされるはず。認めたくなくて口にするものが多くないだけだろう、と考えて、鬱屈が過ぎるなあとため息を吐いた。内心で。
そういうことに、パメニは野生の勘が働くといわんばかりに敏感だ。
――― 馬の上で揺られているとき、その多くは会話もないまま進んでいく。馬上は揺れが絶えることはないので、会話に向かないせいだ。
けれど逆に、櫻はこの時間を好んでいるといってもいい。
………好み、そして戸惑ってしまう時間でも、あるのだが。
ディディエの夢見の後。櫻はジルアートとどうやって会話をして今に至るのか、いまいち記憶できていない。彼の腕の中で目を覚ましてから、まだ眠いからとジルアートを遮断したことは確かだが、遮断といっても彼の身体を離せなかったのはこの腕の方だ。結局抱きしめたまま眠り、ジルアートは夜になって退室した。
それからだって、一度たりとも避けたことはない。避けたことなどないが、真正面から向き合ったのかと言われればそれは否だ。ふらりふらりと視線をかいくぐり、表面上はいつもどおりに会話している。披露宴の準備でこのウィスプランドに来なければならなかったのは、思いたくないがディディエの助けなんじゃないかと思うほど良いタイミングだった。………とはいえ、やはり気付かれている。
ジルアートは時折もの言いたげな視線を向けては来るものの、それを詰めるまでの時間が取れないために延ばし延ばしになっている。それだけで、何の解決にも向かっていなかった。
………聞けばいい。
そう、櫻の中で声がする。
けれど“信じて”と言われた。言われたのに、既に櫻は“信じられない”でいる。
聞けない。聞けるわけなど、ないではないか。
「姉は誰より大切な人です」と言われたら、櫻はどうしたらいい………?
それに、このウィスプランドは―――
「――― ジルアートさまもご一緒できたらよかったのに。ねえ、アウラさま?」
「………え、」
目を瞬かせて、櫻は息を詰めた。
そうとは知らないパメニは明るい口調で続ける。
「せっかくウィスプランドに戻ってきたんだからーって。おいしいものとか、キレイな場所とか案内してくだされはいいのにって思ったんです。セ・ラティエと違って、ウィスプランドは色んなものがあるんですから!」
セ・ラティエとは櫻が住む神殿のある島の名だ。
出るまで名前があることも知らなかった。
聖地ウィスプランドはグランギニョルの首都で、ありとあらゆる栄華はここに集結する………らしい。実際に見たことがないので実感はない。
むしろ自然あふれる穏やかな疎開地………いや、これはひどすぎか。
櫻の滞在する邸は安全面を考慮され、披露宴の直前まで中心地から遠く離れた静養地に極秘で置かれることとなったため、このように未だ大自然を堪能しているわけである。
セ・ラティエでも十分堪能していたが、櫻の文明開化は遠そうだった。
パメニの気遣いは嬉しい。なので素直に受け取っておくことにする。
「しょうがないよ。ジルアートの生家もウィスプランドにあるんでしょ?久しぶりに戻ったなら実家に戻らなくちゃ」
正論だ。櫻は自分で言っていて、なんだか白々しい気持ちになる。
実際、ジルアートはキルセルク家の者としてウィスプランドに来てから何やら忙しくしているようだ。
彼は毎日会いに来るが、それでも午後の一時で、また慌ただしく中心部へ戻っていく。中心部は、グランギニョルの主だった貴族たちの本邸でひしめいているというからそこだろう。アウラの剣の主としての務めは何より最優先だが、今の櫻の心境ではそれを喜ぶことができなかった。結果、彼に一時の帰宅を進めたのは櫻である。
………それは、一種の賭けでもあった。
彼の姉。ジルアートが戻る邸に彼女もいるはずだ。
思い出して、息が詰まるほど胸が苦しくなる。
「それに、パメニも一緒に居てくれるし。ね?」
これは櫻の本心だった。
無論、ルクシタン家の本邸も中心部にあり、今はヴィスドールだけが邸に戻って披露宴の仕度を進めているはずだが、ジルアートが外したせいか、パメニは一度も戻ることなく櫻の傍についている。セ・ラティエでの生活がいかにアウラにとって特別な地だったのかよくわかる………それぐらい、パメニは四六時中、片時も櫻から離れることはない。
だが傍仕えとは、本来こういうものらしい。
セ・ラティエではジルアートとパメニが居住区を交互に分担して櫻についていたからか、そうは感じなかったものだ。ジルアートは仕えるように傍にいたわけではないし、パメニも女官として櫻の身支度を手伝っていただけで護衛の意図は感じさせなかった。セ・ラティエへ帰ればまたそのように戻るはずだが、グランギニョルという世界を身軽に動き回れないことは少々残念でもあった。
余談だが、やっぱりヴィスに移動の術をねだってみるか、と決心したのはこの時だ。
「そうですけどぉ。でも彼女をほったらかしにしておくなんて、万死に値すると思うんですっ」
げほっと櫻は咽た。
か、彼女。
関係がバレてなかったとは思わないが、そう言われると何だか違和感でいっぱいだ。
………かのじょ。櫻は心の中で呟いた。
恥ずかしすぎる。なんでこんなに照れるんだろう。
やることやって、「彼女」で照れるって!
「ぱ、ぱめに」
そんな櫻の心の叫びはつゆ知らず、パメニは眉をしかめて説教じみた口調で言う。
ついでだが彼女の眉の皺は作ったところで同じく馬上の櫻に見えることはない。
「アウラさま?いつも我慢してたらダメですよ。たまにはワガママ言って、引っかき回してやるくらいで殿方なんてちょうどいいんですから」
「………ひ、っかきまわす?」
自分が、ジルアートを?
………確かに自分が年輩だが………………全く想像できない。
黙った櫻に、パメニは笑った。
「あ、でもでも。ジルアートさまって本当にアウラさまを大事にしてますよね。それだけは………うん、褒めてもいいかなっ」
うん、となぜだか納得した彼女に、櫻は頬が紅潮するのを止めることができなかった。
パメニから見て、大切にされているように見えるのだろうか。
………愛されているように、見える?
「………そう、思う?」
小さな、声になってしまった。
掠れたようなそれを再び告げる気にはならなくて、櫻は自嘲した。
「はい!それだけは、ゼッタイです。自信ありますよ私」
パメニの黄色い太陽のように眩しい声が、櫻の心を明るく照らす。
――― それからしばらく馬を走らせた、木々に囲まれた小さな湖のほとりの前で。
櫻は不思議な女性に出会うことになる。