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震える剣  作者: 結紗
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アジェリーチェ




 アジェリーチェ。それはどこで聞いた名前だったのだろう。ジルアートが大切にしている人の名前ということしかわからないが、どこかで聞いた名前である。

法王に身を売ってまで守りたかった人の名前。人質だろうか、と考えて、そうならばジルアートが自ら再び法王に働きかけることはわかっていた。法王は櫻の知るスキャンダルに口を閉ざさざるを得ないのだから、その交渉はそう難しいものにはならないだろう。いざとなれば、彼にとって“櫻”というアウラは武器になる。

 そこまで考えて、はたと止まって椅子にもたれ嘆息する。自分を“武器”として考えるなんて、少しひがみだか澱みだかが増してきていないだろうか。そう思ってこめかみをぐりぐりと押した。

 だが、と櫻は暗い視線を上げる。



 ………「アジェリーチェ」が彼の姉であったなら。

 勝てる要素は一つもない。

 身体を投げ打ってまで守られるその人が、彼の愛した人ならば。


 ”信じてください”


 そう告げた彼を、信じると決めた。それなのにどうしてこうも、すぐに揺らいでしまうのだろう。

 櫻は想いを振り切るように、強く目を閉じた。





***





 部屋にパメニが新たな焼き菓子を運んできたとき、同時に赤い髪の青年も入室してきた。

 なんだか久方ぶりな気がする。とはいっても、何を隠そう昨日ぶりだ。

 先ほどまでの問いを心の中に押し込めて、口角を上げる。


「おはよう。ジルアート」


 彼はうなずき、穏やかに礼をした。

 顔を上げ、何かひっかかるのか、櫻を見て首を傾げる。

 こういう仕草は少しだけ幼げだと、櫻はぼんやり頭の隅で思った。


「アウラ、どうされました。体調が優れないのですか」


 思いがけない言葉にパメニと櫻は目を瞬かせた。

 そしてすぐに、櫻は今羽織っている肩掛けのせいであると気がついて、首を振る。


「ううん。ただなんとなく、今朝は冷えない?」


 今度はパメニとジルアートが顔を見合わせた。

 この様子だとやはり普段と寒暖の変化はないらしい。


「アウラさま。今日は特別、冷えるということはないと思いますが………」


 パメニは困ったように眉をよせて、思いついたように振り向いて慌ただしく給仕用のカートを漁り始めた。

 気のせいかと肩掛けを外そうとするが、やはり外気に触れるとひんやりする。すぐに羽織り直すと、ジルアートが背後へ回って両肩に手で触れた。


「寒いのですか」


「ちょっとだけね」


 がしゃんがしゃんと慌てるパメニは、けれどなんとか新たな茶を運んできたようだ。

 真っ赤な紅茶は、いつも通りの色合いなのに、香りが違う。思わず櫻はカップの中を見つめた。それに気がついたのか、パメニはにっこりと説明する。


「体を温める作用のあるものをお入れしました。香りがするのはそれのせいです。蜂蜜を混ぜ合せましたので、飲みやすくなったかとは思いますが」


 ジルアートも勧められて、櫻の隣の席に着く。

 櫻は熱々のそれにそうっと口を近づけて、ふーっと息を吹きかけた。熱いものを熱いうちに飲めないのは猫舌の悲劇である。

 懸命に冷まそうとするそれを見ながら、ジルアートは思わず小さく噴き出した。くっくと俯いて懸命に笑いを止めようとするが、見事に失敗して腹筋が痙攣したらしい。手にしたカップをソーサーに置きなおし、片手で腹を押さえる。

 櫻はきょとんとし、笑いの原因が自分だとわかると、次の瞬間かーっと首から顔まで紅く染めた。「もう!」としか叫べない。しかも真っ赤な顔で大きな声で窘めても、羞恥を誤魔化せるものではなく、パメニまでくすりと笑うのが聞こえる。そしてそれはなんとなく見守るような生温かい笑みなので、それはそれで不本意だと櫻は反撃できずに俯いた。


「………ジルアート」


 地獄から這い出たような声になっていればよいのだが。

 櫻はじとりと目の前の青年をにらみつける。


「す、すみませ………っ……あなたがあんまり可愛らしいから、つい」


 怒らないで、と言いつつも、当の本人の笑いが収まっていない。


「可愛らしくってなんで笑うの?!」


「ぷ、くくっ……真っ赤ですよ、私のアウラ」


 眼尻に涙を浮かべてほほ笑むジルアートは、けれど櫻にとってはむかむかするだけの笑顔だ。いらっとしたのが伝わったのか、慌ててパメニが先ほど運んできた焼き菓子を卓へ並べる。


「さ、アウラさまっ。これでも召し上がってくださいな。そのうちにお茶も冷めますわ」


 ね、と美女に甘く勧められ仕方ない。むすっとしたまま大皿を手前に動かす。

 飽きもせず、というように、未だ先ほどの笑みを引きずりながらジルアートはその軌跡を目で追っていた。その顔は、さながら満腹の猫のようだ。やけに満足げなのが気に食わない。


「ジルアートは食べちゃダメなんだからね!絶対あげないわよ」


「ええ。構いませんよ。どうぞ召し上がれ」


 そう言って頬杖をつく仕草がモデルのように計算づくな気がするのは気のせいだろうか………気のせいだろう。そう思いたい。

 櫻はむすっとしたまま、焼き菓子を指で摘もうと手を出した。

 が、しかし。


「はい、どうぞ」


 一瞬早く、櫻のそれより長い指が焼き菓子を摘まんで櫻に口元へと近づいた。その手の主は、藍色の目を細めてふんわりと微笑んだままである。先ほどより、若干糖度の高い視線に感じて思わず視線を逸らした。

 ………微笑めばいいってもんじゃないのよ、さっきから!

 素直に食べることなどできない櫻はここで止めておけばよいのにと内心後悔しつつ、つんっと顎を上げて他の焼き菓子を頬張る。

 苦笑したパメニは、ジルアートの目配せでウインクを残して退出していった。

 こんな時まで空気を読むのは読みすぎではなかろうか。と、櫻は気まずさに眉を寄せる。

 頬の紅潮は、まだまだおさまりそうにないというのに。


 もぐもぐ、と焼き菓子を咀嚼して、ずいっと冷めた紅茶を一気に飲み干す。適度に冷めた紅茶が喉に心地よくて、飲み干した瞬間満腹感で満たされる。ああおいしい、と櫻は思わず笑みを浮かべた。

 と、カップを置くと、そこにいたはずの青年の姿が見えない。

 はて、ときょとんとする間もなく、真横からいきなり顎を引かれた。


「では、お口直しに私もどうぞ」


「は?!………んむぅ……っ」


 まだ朝だけど、と口が開くなら叫びたかった。それだけ櫻の口腔をじっくり犯すと、ジルアートは朝の爽やかさ満点の表情で「ごちそうさまでした」とのたまう。

 櫻はといえば、既に口答えする気力もない。ぐったりとしたそれは、けれど確かに色のある脱力感で、こぼれた唾液を指で払うことさえも誘うようだ。

 ジルアートは思わず額に手を当てた。


「………ん、なに」


「…………いえ」


 ちらりと視線だけ寄越すその目も、眼尻に涙が滲んで、微かに赤い。

 たまらずそれを舌でじっとりと舐めとって、ジルアートはくたりとした櫻を抱えてベッドに運んだ。

 雲のようにふわふわとした寝台だ。そこに丁寧に櫻をおろし、首筋にキスを落とす。

 くすぐったかったのか、櫻が小さく笑う。機嫌はどうやら直ったらしい。


「ねえ、いくらなんでも昼間っからダメよ。いつ誰が入ってくるかもわからないんだから」


「………あなたの私に対する評価はそれですか?」


 心外だなと眉が寄せられて、櫻はくすくすと笑いながら指先でそこに触れた。くりくりと、女性の力でそこをほぐしていく。


「ここ数日は、そんなかんじ」


「それはひどいな」


 その手首をとらえて、白いそこに跡が残るように強く吸った。


「おしおきです」


「またなの?毎日おしおきじゃない」


「あなたがいけないんですよ、サクラ」


「また私のせいにする」


「いつだって、あなたのせいなんですから」


「まあ、ひどい」


 ジルアートも横たわったままの櫻の隣に腰を下ろす。だが、そこに色を感じさせる仕種はあまり見られない。櫻もそれがわかったのか、あけすけに笑うばかりだ。その肩を抱いて引き寄せると、肩掛けを上に被せる。


「寒いのなら、少し眠ってください。その方が体温が上がりますから」


 抱き寄せられても、櫻は何も言わない。むしろ猫のように傍らの青年にすり寄って、笑みを浮かべた。その笑みに気づいたのか、ジルアートは凪いだ瞳をそっと伏せて、頬に口づけを落とす。


「私が傍にいますから」


 安心させるように告げると、うん、とくぐもった声が聞こえた。互いに触れる箇所がとても温かいからか、櫻の瞼が下がっていた。すぐにでも眠りに落ちそうだ。先ほどの茶が効いているのかもしれない。

 ………すると二人しかいないこの部屋でもかすかにしか聞こえぬほど、小さな、小さな声で櫻は囁いた。



「………目がさめるまで、ここにいてくれる?」



 ジルアートは思わず目を瞠る。けれどすぐに、彼女の瞼に掌を乗せて囁き返す。


「おりますよ。だから安心して、眠ってください」


 うん、と幼子のように返すと、櫻は素直に目を閉じた。

 ――― 静かな寝息が聞こえだした頃。ジルアートは何かを噛み締めるように唇を歪め、櫻を抱えた腕に力を込め、その無防備な寝顔に心中で告げた。








『ここに、います。………今は、まだ』









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