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震える剣  作者: 結紗
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法王との面会6




 だが、と大仰に足を組み換え、指先で櫻の顎をすくう。三本の長く、ほっそりとした白い指先。懸命にヴィスドールから視線を逸らさずにいた櫻だが、思いきり視線のぶつかる高さに固定されてしまっては揺らいでいる瞳も暴露されてしまうに違いない。

 事実、じいっと瞳を覗き込んできた狐目は、ゆらゆらと不安定な黒いそれを認めて目を細めた。


「おまえが尋ねたかったことはそれではないな。……なぜ言わない」


 言葉は詰問のようでいて、けれど柔らかさを含んでいるように思えるのは櫻のただの願望だろうか。卓を挟んだまま顔を固定されて、動くのは手足だけだ。けれども握りしめた指以外には力が入らない。

 月を揺らいで見せる水面のように、櫻の目は水に濡れているはずだ。それをあからさまに見せていることに、頬が紅潮する。ヴィスドールは少しだけ首を傾けると、指先で猫の喉のように櫻のそれをくすぐった。


「言えというのに」


「言えないよ」


「なぜ?」


 言葉遊びをしているのか、可笑しそうにヴィスドールは笑って問うた。櫻の目に溢れる水は、表面張力の限界を過ぎてとうとう頬へと伝った。ああ、と心は後悔で満ちるのに、一度溢れると止まることを知らないようだ。

 指を伝い、涙がこぼれ落ちる。瞬きの度に涙がこぼれ、ぱらぱらと落ちていく。

 ヴィスドールは表情を変えず、またじいっと櫻の顔を見つめていた。月の光が当たった白い顔は、能面のように無機質で美しい。

 でもそれ以上にきっと美しいはずの心に素手で触れてしまったはず。棘に覆われたそれの奥に、そんなに柔らかで傷つきやすいものが隠れていることを、櫻は知らなかった。

 知ろうとしなかったからだ。自分を守ることに必死で。

 櫻は呼吸をし、その度に涙をこぼした。


「もう………ヴィスを傷つけたくない」


「傷つく?なぜ」


「わかるよ。ヴィス、私はつらい。ヴィスが話して傷つくなんて、私はいや」


「おまえは知りたかったのだろう。アウラの死を」


 凪いだ目で、ヴィスドールは直接的に告げた。櫻は目を見開く。

 ことばは、口から出てはヴィスドールの心を傷つけるはずだ。「アウラの死」なんて、心が血を流してしまうことばだ。

 だって。


「ヴィス………っ」


 たまらず、櫻はその手を取った。

 ひやりとした大きなその手を両の手で握り、櫻は首を振ってそれを額に押し当てる。

 ヴィスドールはただ黙してそれを眺め、そうしてやがては同じように目を伏せた。



 あたたかい手だ。

 二人は同時にそれを思った。


 

 この手は愛した妻を斬り殺した手。

 けれどこんなに、あたたかくて優しい。




 櫻の涙が枯れる頃。

 ヴィスドールはぽつりと呟く。



「………誰にも話したことはない。パメニも知らぬことだ。あれは好いていたからな。………とはいえ………ふ、本当は、あの人の思いを閉じ込めておきたかった。ただそれだけなのだろうな。綺麗なままで、いさせてやりたかったのだろうな………」



 不意にヴィスドールのもう片方の掌が櫻の握りしめる手を覆う。

 


「心の病というのは、誰に気づかれることなく進む。………私が気づいた時にはもう遅かった。死にたいと、泣く彼女を見ていられなかった。だがそれは、支えきれなかった私の咎だ」


 櫻は顔をあげることができずにいた。

 冷えた身体。けれど両手だけはあたたかいまま。

 ヴィスドールは掠れた声でそう告げて、しばらくすると櫻のように、二人の手に額を押しあてた。櫻の額にヴィスドールの髪がかかる。

 こつり、と額が軽く合わさった。



「理由は今でもわからない。繰り返しそう、彼女は願った。………私にしか頼めないと、あの強い人が泣いた。愛しているなら殺してほしいと泣くから、私は愛しているから殺そうと答えた。………ただ、それだけだ。私も未だ、夢をさまよっているように思うさ」



 まだ、いなくなった女性ひとを認められない。



「おまえは私の妻ではないし、心も健康なのだろう。殺しはしないさ。そう怒ったり泣いたりできるうちはできる限りするがいい。………できなくなってからでは遅い」



 六戒の一つは“アウラの慟哭”だ。櫻が心を壊すほどの悲しみこそ“慟哭”といえるだろう。



 心を壊したアウラ。

 彼女を愛したヴィスドール。

 なぜ、という言葉が胸を突く。もう問いかけることも責めることもできないのに、櫻は見たこともない彼女に憤りさえ感じていた。

 ヴィスドールが心を許し、愛した女性ひと

 彼女はヴィスドールが自分を愛していることを知っていて、その手で殺させたのだ。

 それは愛なのだろうか。

 少なくとも、今の櫻には許せない。………ヴィスドールしか知らない櫻は、許せない。

 ………けれどそれさえ、蚊帳の外の櫻が踏み込んでいい領域ではない。

 無性に、誰かの胸が恋しかった。

 抱きついて、泣いてしまいたかった。


 胸の内の声が聞こえたわけではないだろうに、ヴィスドールは口を開いた。

 そして雪が降るように静かに、しんしんと、声を響かせた。

 吐息のように。

 そしてそれは、満ち足りた穏やかな声色だった。




「………いい。私はこれで、満ち足りているんだ。………新たなアウラ」





 もうおやすみ、と降ってきた声に。

 櫻の視界は急速に襲ってきた眠気に抗い切れずに暗転した。





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