法王との面会5
青い光の夜だった。
白く照らされた月の照明と、辺りを漂う紺色の気配。その夜の空気に身を震わせて、櫻はヴィスドールの示した卓に着いた。腰かけた椅子さえ冷えていたので、思わず温められないのかと尋ねれば、「できるがしない」とそっけなく返された。寒いから良いのだろうと告げられ、ついでに趣を解せんとはなと皮肉った揶揄まで放り投げられる始末となった。確かに寒い場所で温かなお茶を飲むのは格別だろうが、だからといってあえて寒い環境でいることもないだろうに。そう嘆息するが、相手は一向に興味を示さないようだった。
卓に着き、気づけば目の前には揃いの茶器が現われていた。大きなポットからは湯気も出ていて、微かに茶の香りさえする。この静謐な空気の中では小さな揺らぎさえ大きく感じるのだから、不思議である。
ヴィスドールは櫻の手が伸びる前にポットを持ち上げ、優雅に茶を注いで見せた。白い湯気がもうもうと立ち、しばらくして琥珀色の液体が顔をのぞかせる。
「……どうした?毒など入っていないぞ」
口をつけたヴィスドールは眉を寄せた。相変わらずの柳眉は顰められても美しい。こういう負の表情だけは妹のパメニとよく似ている。
応えるようにカップだけ持ち上げる。じんわりと両手の内側に熱が移って心地よい。
「猫舌なの」
誰も来ることができないだろうような最上階のティーパーティだ。しかも真夜中の。
見下ろす景色は恐ろしすぎて視界に入れることができないが、浮かぶ島々の大小さや、浮かぶ雲が月の光で陰影に富んで見える。これだけでも黙って茶が飲めるというものだ。
………言葉もなく、黙した空気が続いていた。
櫻が感じているように、ヴィスドールも感じているはずだ。
櫻はようやく、口を開いた。
「私とあなたは、よく似てる」
景色を見ていたはずのその狐目がちらりとこちらを向く。
返答がないのは同意なのか、その先を促しているのか。
どちらにせよ、大して答えは変わらない。
「………っていっても、私がヴィスを呼んだわけじゃないからね。話したいことがあったのはそっちでしょ。さ、どうぞ」
寒いから早くしてね、とてきぱきと告げると、ヴィスドールは笑んで応じた。
「そうだったな。今日の騒動のおかげですっかり飛んでいたのだが、私が呼んだのだったか。先ほどは、活発な神託者殿を持つとこちらが苦労すると感慨に耽っていたのだがな」
「あんたに言われたくないわ」
法王を斬りつけたことを足りないと煽ったのを忘れたのか。
「ふ、まあいいさ。…………さて。女官長はおまえに話したか」
先代のアウラとヴィスドールの話だろうか。
それともジルアートのことだろうか。
櫻には判断がつきかねた。
「何を」
「何でも、だ。あの女が握っている情報は山のようにあるだろうよ。その中から告げたのは何か、まではわからぬがな」
「ヴィスの奥さんのことなら、聞いたよ」
そう短く放つと、ヴィスドールは柔らかな目でそうか、と告げた。
それが少し意外で、櫻は目を瞬かせる。
「別に構わぬさ。グランギニョルに知らぬ者など、おらぬ話さ」
「………でも、聞いたけど、腑に落ちないこともあった。……かな」
ヴィスドールの顔を見返すと、二杯目を注いでいるところだった。言外に尋ねても良いかと配慮したつもりだが、「ここまで来ておいて黙って帰るつもりもないだろうに。言ってみろ」と笑われる。
「そうだな。……どんな人だったの。シェバトはすごく綺麗な人だったって言っていたけど」
直球で突くとでも思っていたのか、ヴィスドールは意外そうにこちらを見遣り、皮肉気に口元を歪めて見せた。
当然、櫻が尋ねたかったのは外見の話ではないのだが。
「今のアウラと比べるべくもない、とでも言っておこうか。衝撃は少ないほうがいいだろうな」
「……さっきから喧嘩売ってるの?売ってるのよね」
「さて」
吐息で笑む音が聞こえた。盛大に眉を顰めてやると、冗談だ、とおかしそうな声が降ってくる。だが、と呟いて、ヴィスドールはそのまま沈黙した。
「………ヴィス?」
持ち上げたカップの中を、ただ見つめる瞳。
「…………美しい、人だったよ」
静かな声は、まるで涙のように静寂に落ちた。
「彼女は聡明で、凛として、美しかった。……ああ、今でも鮮明に目に浮かぶさ」
漆黒の艶に満ちた短い髪。
白く美しい、気に入りの項は彼女には秘密だった。
小さな唇に知性を感じ。
冷たい視線に畏れを持った。
ただ、焦がれた。
櫻は自分で尋ねておいて、早くも後悔していた。
この一言で、伝わってしまった歴然とした事実がある。
優しく、柔らかく、甘く―――それでいて途切れそうな悲鳴をはらんだヴィスドールの声と、表情と、櫻が感じるすべてのものに、理解した。そうして、泣きそうになって唇を噛んだ。
櫻が聞いていい話ではない。これは、ヴィスドールと彼女だけのものだ。
櫻はそれを、瞬間、理解した。
今でも愛し、戀しいと哭く男にしてやれることなど何もない。
櫻はただ、アウラを殺めた理由を聞きたかっただけだ。だがそれは、ヴィスドールへの信頼を回復するために必要だっただけのことでしかない。先代を殺めたという事実を櫻に告げる義理などなかっただろうが、櫻が今のアウラである以上、生きていく上での危機は知っておきたかった。だからその理由を聞いて、ヴィスドールの正当性を知って安心したかったというだけのこと。アウラを殺した過去は、櫻の身をも危ぶむものであるかもしれないからだ。
この事実を黙していたことが明るみになった今、欠けた信頼を少しでも回復したいという櫻の願いだけのために、この真相を聞きたがった。それをヴィスドールは察したのだ。そうして、受け入れてくれた。
何もかも知った上で。それは、秘密の花園を暴くようなものではないか。
アウラ弑逆という大罪を認めることではない。そもそも、グランギニョルにいなかった櫻には、その大罪すら批判する権利はないに等しい。あったとしても、そのおかげで櫻がこちらに呼び寄せられたということぐらいだ。本来なら、このような大罪の真相を望む権利はないはずだ。………少なくとも、グランギニョルに暮らす民以上には。
櫻は今までの行動が全て“自分”を守るためだけのものであり、そのために周りに刃を向けていた自身を今、思い知った。自分を守ることは理だ。誰もがそうだ。
だが、そのためだけに誰かを傷つけ、抉る行為が許されるということと同義ではない。
少なくともそのことを、櫻自身はわきまえているつもりだった。
急速に不甲斐なさや羞恥に胸がつまる。
「…………ヴィス」
遠く、甘やかな記憶を辿ろうとしている彼を、櫻は必死で見つめた。
熱を持っていたはずのカップは既に冷えている。それでも懸命に両手でそれを抱えながらヴィスドールを射る。
皮肉ばかりで、頭が良く回るものだから、いつも櫻は彼の前で気が抜けない。
だが、それでもここまで来られたのは、ヴィスドールの授業があったからだ。きっと見えないどこかで、いつもこの男に守られていたのだろう。法王や他の見えない手から。
信頼が欠けて不安な櫻が、ただ安心したいがために自身の過去を知りたいと願ったことを知っていて、それでも遠回しに告げようとしてくれた、今この時のように。
「愛してた?その人のこと」
―――当然のことを、櫻は聞いた。
もう知っている、当然の前提を。ただ一つだけ。
その意図を。
ヴィスドールはゆっくりと目を瞬かせ。そして理解したように微笑んだ。
大輪の薔薇のように。
「愛しているさ。今もずっと」