sora4
夢を見る。
全てを覚えていられないのに、繰り返し、繰り返し、夢を見る。
白い世界だ。
私はその世界に一人立って、映像をただ眺めている。
繰り返し、繰り返し。
一番記憶の多い地球の映像と、愛する人の笑顔と、空に浮かぶ島々と、不可思議な研究所。
そして老人の情事。
幾つもの映像が切り替わりながら、ノイズを混ぜて繰り返す。
繰り返し、繰り返し。
「………またか」
寝起きのぼんやりとした思考のまま、目だけ開いた状態で櫻は一人ごちた。寝台では身動き一つなかったように、それは整っている。実際、そうなのだろう。寝た時のままの状態だ。
ちらりと見た窓の外は既に光が射している。起きるのに支障のない時間だろうか。
ふう、と大袈裟に息をついて、額に腕が回る。
ここに来てから、不思議なことが自分の身に起きることは大分慣れた。
それを当然のように受け入れざるを得ないこの世界。淡々と進む毎日が、けれどじわじわと真綿で締めるように苦痛であるのは何故だろう。息苦しい。出られない。………そう、”出られない”と、感じるこの窮屈さは一体何だ。
夢の映像が、はっきりと脳裏にやきついているのが不思議と不快ではない。
不快ではないが、疑問だった。
なぜ、あんな夢を見るのだろう。
「おはようございます」
沈み行くはずの思考が、ぷつりと断ち切られる。
声がして視線を向けると、扉から堂々とジルアートが入ってくるところだった。………早朝とはいえ、せめて窓などからお忍びで来るべきではないのだろうか。と、ぼんやり思いつつも、口を開くのは止めた。小言はヴィスドールだけで十分だろう。
ん、と笑って手を向ける。真っ直ぐに寝台へ近づいてきたジルアートは、意味深に微笑んだまま寝台に膝を乗せる。
………ぎし、と柔らかく寝台が揺れる。
「………ちょっと」
視線で窘めてみても、鉄壁の笑顔に弾かれる。
片足が寝台に乗り、身を櫻の方へ傾けると、自然と寝台も傾いて櫻は男の方へと近づいた。……これはちょっと、いやかなり、不本意である。転がってしまったではないか。
上げたままの腕を取って、流れるように、けれど深く手の甲に口付けられる。………ちゅ、と甘い音がした。
「朝からご機嫌ななめですね。どうしました」
「………この手は起・こ・し・て、って意味なんですけど。剣の主殿」
「それはそれは。……わかっていましたけど、私がしたいことは別なので」
しれっと言うな。櫻はそこまで突っ込みきれない自分が悔しい。
……一度身体を繋げたせいか、ジルアートの笑みが甘いような気がしてならない。態度が近いような、気安いような気もするが、なにせあれから一日間を置いただけである。だが、むしろ――― こちらも何か、変わっているのだろうか、と櫻は思い、もしそれを気づかれているなら嫌だな、とも思った。
大した理由はない。恥ずかしいというだけのこと。
軽く寝台に乗ったジルアートの身体のせいで、赤い髪が一筋、ふた筋、と櫻の頭上から落ちてくる。
それが朝日を透かして、夕陽のような朱色に光ったのに、櫻の目は一瞬見とれた。
その隙に、青年は身体を屈めた。
「………んー…っ」
「見とれてくださったのは、髪だけですか」
一瞬の口付けなのに、目が潤んでしまったのがわかる。一瞬で、ず…っと深く舐められた。
むぅ、と怒って眉を寄せても、困ったように笑いながら肩を竦めるだけだ。
「………もっかい」
「はい、はい」
こらえきれず、といった風に噴き出したジルアートに両腕を回す。すんなりと回った腕は、ジルアートの背の部分に触れた。
…冷えている。朝早いのだから当然だが。櫻はささっとジルアートの身体を引き寄せる。
すると、引き合うようにすぐに唇が落ちてきた。
「ん、」
「………まったく。慣れているのはどちらですか」
「年の功かな、って何言わせるの!ったく、もう。……すぐお茶淹れるから待って。そんな冷たい身体でいたら、風邪を引くでしょ」
するりと抱き寄せられていた腕から抜けると、窓辺の小さな卓へ向かう。女官を呼べばすぐに用意してくれるだろうが、いざという時のための茶器は揃っている。手馴れたものだから、と一人でそれをこなすと、大人しく青年は向かいに腰掛けた。
………ぼんやりと、流れるお茶を見つめながら、頬杖をつく。それを珍しい、と櫻は見て驚いた。
姿勢の整った仕草ばかりの青年だ。いつもならまっすぐに背を伸ばして卓に肘が触れることなどありえない。
咎めたいわけではないので、櫻は黙ってお茶に蜂蜜を入れてやった。………甘い方がいいに違いない。
用意ができて櫻も卓に着くと、目を合わせてありがとうと笑う。目が合うたびに、櫻は目を細めてしまう。
――― この藍の色が、好きだ。
飽くことなく、ずっと見つめていたいと思うのは、昨日の今日だから、だろうか。
なんとなく、目を離したくない。
でもだからといって、目を合わせていたいという意味でもなかった。
「サクラ、今日は法王と面会の日ですが緊張されていますか」
ジルアートは蜂蜜を入れていたのを見たせいだろう、スプーンでくるくるとかき混ぜながら口を開いた。
呼び名が変わったのは気恥ずかしいが、向こうはそうでもならしい。大抵の場合、外で呼ばれるから”アウラ”なのだが。
「ん?別に」
櫻はふうふうと覚ましながら視線を上げた。
くるくると、まだ混ぜているその姿はやはりどこか、おかしかった。
……聞いた方がいいのだろうか。
「ヴィスが、いい加減会わせろと煩いのです。今朝はそのお願いに」
「ああ………そういえば、会ってなかったね」
シェバトに聞いて、事実の確認ができてしまったせいか、どうも一段落したような気になっていた。
「ヴィス、何か言ってた?」
「ああ、何と言うか………まあ、会ってやって下さい。私に見せるのとあなたとでは、随分違うはずですから」
櫻は上を見て、そうかもしれない、と内心で頷いた。
そうでしょうとも、と察したジルアートがお茶を口に運ぶ。その仕草はやはり精彩を欠いているようだ。
「法王との面会の後でいいかな。落ち着いて話したい」
さもありなん、とジルアートは眉を困った風に寄せた。
もちろんです、と気遣わしげな様子である。
知らない老人に会えといわれても、大して緊張の仕様がないのだが。櫻は黙った。
「会ったって、挨拶以外に話すことなんてないんだけどね。あちらにはあるのかな」
「さあ。どうでしょう」
投げやりなその言葉は、言葉以上に冷たい響きを持っていた。櫻は茶器を置いて、ジルアートを見つめる。
かといって、声を掛けることがあったわけでもない。相手がぼうっとしたいのであれば、それでも構わない。冷たい声の意味を問えるほど、まだ関係ができあがっているわけじゃない。
………やはり、あの夜は失敗だったのかもしれない、と櫻は窓の外の景色を見ながら思った。
いつかは迎えたかもしれない。
けれど、それはあの夜で良かったのだろうか………と。
「………六戒の罪は、あと、一つ」
不意に告げられた言葉に、櫻は視線を戻した。
そこには、目を伏せたジルアートがいた。
「あと一つ。それが犯されれば、このグランギニョルは終わるのですね。サクラ」
「不吉な言い方をするのね」
すみません、と軽く笑ってジルアートは答えた。
「そうならないために、私がいるんじゃないの?神様の……神託を受けられるんだから」
「神託は必ずしも世界の崩壊を防ぐものではないんですよ。あくまで、神託は神託です。神の定めし罪は、神託で守られているわけじゃない」
ふう、と青年が息を吐いた。
「あなたを悲しませることなんて、あってはならないと思います。純粋に。そのために私がいるんですから。けれど………」
「………ジルアート?」
ねえサクラ、とジルアートは顔を上げた。
「世界の終焉とは、どのようなものなのでしょう」
罪が光の柱によって罰せられるというのなら、最後の罪を犯したら、光の柱が矢のように降ってくるのかな、と冗談じみた動作で告げる。
「島が落ちる?………落ちたら、皆、助からないでしょうから、それも世界の終焉と呼べるのかな」
「そもそも、落ちるって発想がグランギニョルにはないでしょ」
よく考えれば当然のことだ。
生まれたときから浮いている島にいれば、その島が陸から浮き上がったものだなどと考えるより、”浮いているものだ”と事実をそのまま受け止める方が自然だろう。
この発想は、櫻がいつか口にしたことだ。だから眉を顰めた。
……随分、意地の悪い言い方をする。
「………サクラ。あなたはどう思いますか」
「終焉について」
「ええ」
「どうかな。わかんないわ。……少なくとも、六戒に触れるような悲しいことになんて、私、遭いたくないし。そうならないよう努力しなきゃ。前代のアウラが私で最後って予言したっていうのが相当不吉だけどね」
口にしてから櫻は思い出した。
”アウラの慟哭”という預言書の予言を、彼は知っているのだろうか。
ジルアートは、特にそれには触れなかった。
「予言、ですか。……ああ、」
「だって私が最後ってことは、私の代で世界が滅ぶって言われてるようなものでしょ?」
そんなの、困るわ。
櫻がぐいっと紅茶を飲み干した。………冷めてしまったらしい。
見ればジルアートのカップは既に空だ。
「………ああ、いけない。長居が過ぎたかな」
と、突然目の前の青年は立ち上がった。
何の音もしないけれど。
そう口を開こうとした瞬間、唇に指先が当てられる。
はっと息を呑む。すぐそこに、ジルアートの顔が迫っていたのだ。
「――― お静かに。すぐ、女官が起こしに参りますよ。足音と気配がします」
夜勤の女官と見張りはずっといるはずだけど。
そう視線で伝えて見せると、「眠り薬がまだ効いているはずなんだけれど」と小さく首を傾げて見せた。………何をしている。
櫻は呆れて、次いで口元が笑みを作る。
その動きに気づいたのか、扉に視線をやっていたジルアートがこちらを向いて、にっこり笑う。
「次にお会いするときは、法王の面会のお時間ですよサクラ。大丈夫、支度が済めばちゃんと会えます」
「名前間違えないでよ?」
「ええ、もちろん」
青年の指先が顎をすくったのを合図に、唇が重なった。
近づく伏せられた睫がやたら長いことに恨めしさを感じつつ、けれどそれ以上の高揚が身体を包んでいることも十分承知。
唇を離した直後、櫻は相手を見上げた。
屈むようにしていたジルアートは、その視線に目を細めて応えてみせる。
――― コンコン、と扉を叩く音がした。
とっさに櫻が視線をやる。
と、次の瞬間、ジルアートの姿はどこにもなかった。
「おはようございます、アウラ様」
今日は法王との面会があるからか。パメニではなくシェバトの声がする。
これから櫻は、”アウラ”に徹しなければならないのだ。
「………おはよう。どうぞ」
櫻は腹の底に力を入れた。