sora3
………薄暗い。照明が最小限に抑えられた、静かな部屋だ。遠くで、電子機器の振動音や起動音が幾つもする。
白衣に包まれた華奢な腕は、ずっしりと………重かった。
「世界にはルールが必要よね!どんなものがいいかしら、と思って、適当に見繕って持ってきた」
どさり、と手が重たいものから開放される感触がした。今まで手にあったのは、薄い本の束だったようだ。広い室内の中央にある大きな机の上に、手の持ち主はそれをバラ撒いたのだ。
「………それはいいけど、それだけの本を調べるつもり?しかもこれ、童話じゃないか」
後ろから近づく声がして、うん、と勢いよく首が動く。櫻にしては、随分元気な反応だ。
自分がしているはずの行動が、普段のものとずれていることに、違和感を感じる。しかし、自然と身体は動いた。
「自分で無闇やたらなもの作るより、先人たちの知恵を借りようっていう選択です。どう?賢明でしょ」
「……自分でプログラム内容ぐらい決められた方がいいと思うんだけど」
「そりゃあ、ルールは私が決めるわよ。でも表し方にセンスが欠けてるって、ミュゼも皆も言うんだもん」
傍らに立った青年は、確かに、と真剣に頷いた。
ぶう、と膨らませた櫻の頬を、指で突付く。
「それは仕方ない。枯渇してるものに求めるのが無駄ってものだろ」
「ひどい!私、ちゃんとミュゼの言ってた浮遊庭園作ってあげたでしょ」
ばっと指差した先には、巨大な壁一面のディスプレイがあった。幾つも小さなグリーンの縁が現れているが、それも同様のディスプレイの役割を果たしているようだが、多く表示されているそれらには難解な文字や数字が並んでいる。
最大のディスプレイには、映像が投影されていた。青い空に浮かぶ、幾つもの島々。荒々しくも見えるその島々は、うっすらと広がる雲に半分その姿が霞んで見えた。
「………本当にな。物理的復元はこんなに上手いくせに、どうしてこう、センスがないんだ?」
「………あんた、ケンカ売ってんの?」
「事実じゃないか」
「褒めるならきっちり褒めなさいよ!………あぁもうっ、皆まだ戻ってこないの?!」
八つ当たり気味に机に振り返っては本を漁る。
「食事ぐらいのんびりさせてやればいい。………ああ、これはどうだ。エデンの園」
「それ、りんごでしょ?りんご食べたらダメですーっていうの?そうじゃなくて、条件をビシっと定められる枠が欲しいのよ。一応、候補はあったんだけど………あ、あったあった。これ」
青年は示された一冊の本を手に取った。
「海が割れちゃう話よね。かっこいいわ!」
「………海を割るのと十戒は繋がらないんだがわかってるか?」
「わかってるわよ!ったく、一々細かいわね。でもそれ、十戒っていう表現良くない?私としては十個も考えられないから、この前書き出した六個でいいと思うんだけど。どう?”六戒”っていうのは」
「ああ、これならいいんじゃないか。………でも何度も言うけど、海は割れないぞ。第一空中の設定で海はない」
「わかってます!本当にロマンの欠片もないんだから」
あっさりと通ると思ってなかったせいか、あっさりと許可が出てしまったことが妙にこそばゆい。
頬の紅潮を見つけられる前に退散しよう、と慌てて本をかき集める。
「じゃ、じゃあ、これ片して来るわ。その本だけ皆に見せればいいわよね」
「そうだな。…………ちょっと待て」
「え?」
有無を言わせない程度には強く、腕を引かれて振り向かせられる。机と、男の身体とに挟まれて、櫻の身体はどくりと鳴った。
あたりは相変わらず薄暗く、小さな電子音が鳴るだけだ。明るいのは、机の上に設定された微かな照明だけ。
後ろの机の上にも照明があるからか、まるでスポットライトに当たっているような光の加減だ。机に触れている櫻の身体は、男からは明るく光って見えるだろうが、櫻からは男の顔がぼんやりとしか見えなかった。はっきりしているのは、掴まれている腕に触れる、白衣を着た男の白く、ほそい腕だけ。
「ミュゼ?」
「………どうしてそう、可愛いんだ」
「はっ?………ん」
櫻の身体は近づく男を拒まなかった。温度の低い男の唇が櫻のそれに触れる。その感触が心地よい。
この温度に、慣れているな、と櫻は意識の外で思う。
「照れた時の君は、本当に可愛いんだ。………こんなところで、簡単に見せて欲しくない」
「ちょ、ミュゼ!」
戯れのように何度か触れ合い、櫻の頬が真っ赤になった頃。
くすりと悪戯に目を煌かせた男が、口を開いた。
………この瞳。どこかで見た―――
ぼんやりした櫻の意識は、しかし次の言葉で霧散した。
「行こう。一緒に本を持っていくよ。アウラ」
アウラ。
この名前が、彼女の名前であると、櫻は瞬時に理解した。
***
うっすらと闇の気配の残る朝だ。朝、なのだろうか――― 気がつけば、櫻は室内に視線を彷徨わせていた。朧が心を迷わすような、ううわふわと所在無い感触が全体を包んでいる………まるで、夢の名残のように。
身体を起こそうとして、シーツの感触に驚いて動きを止める。肌に直接触れるシーツの感触。今まで一度も感じたことがないその感覚に、櫻は咄嗟に息を止めた。……そして気づく。傍らの呼吸に。
呼吸に気づいたのは、傍らの身体が上下に動いていたからだ。息を殺しても、寝息のような音は聞こえず、思わず耳をすませてしまったほど、静かだった。
朱色の美しい髪が入り、ようやく状況を理解した。まだ朝にもなっていない時刻に、櫻は起きてしまったらしい。
それにしても、と隣の熱の主を見つめる。
あー、と項垂れたい気持ちに覆われ、隠すこともできずに眉が寄った。
………致してしまった。
らしい。
問題も謎も、この青年については何一つ解決していない。
けれど昨日の熱を思い出して、少しだけ、全身に入っていたらしい力が抜けた。
(………その、お姉さんを今どう思っているかはわからないけど……)
櫻をその腕に抱いたのは事実だ。昨夜の情熱は、嘘じゃない。それはわかる。
信じてもいいの、と心の中で問いかけて、櫻は静かに、ジルアートを見つめた。
本当に錦糸のような艶に満ちた髪。
伏せられた瞳を彩る、人形のように長い睫。
すうっと整った鼻筋。形の良い端正な唇。
きめ細かい肌。
青年、と呼ぶにふさわしいだけの年齢と骨格のはずなのに、今思い出すのは美術館に展示されているような、少年の姿をした神の姿。
姉を愛してもおかしくないほどの、美しさと神秘さを感じる。
(………私に、一歩踏み出してくれたって、信じてもいい?)
滲む涙は何の為か。
櫻はそっと、羽のように。
急速に胸を締め付ける、愛しい青年となった彼に口づけた。
………ゆっくりと、目が開く。
反射的に、青年は櫻を抱き寄せた。熱が逃げるのを恐れるように。
「………アウラ」
「うん?」
「じゃなかった………サクラ」
「……うん」
「こちらへ」
グランギニョルの朝は冷える。櫻は名前で呼ばれたことにどぎまぎしながら、大人しくジルアートの腕に従った。
しがみつかれるようでもあり、抱きかかえられているようでもある妙な体勢だ。だが、あらゆる箇所に彼の熱を感じる。
しばらく小さく唸っていた彼は、ようやく覚醒したようで、かすれる声で「おはようございます」と告げた。
「……おはよ」
熱が嬉しい。じんわりと肌に伝わる熱がどうしても、恋しかった。………今まで我慢した反動だろうか、と櫻は思ったが、今は素直に欲求に従うことにした。甘えるように、ジルアートの首筋に顔を埋める。
ジルアートは当然のように、その櫻の身体を抱き寄せた。先ほどと違って、ほぼ半身がぴたりと青年とくっついた。
………あたたかい。
「お早いですね。一人にさせてしまいました」
こんな時まで律儀に心配する剣の主に、櫻は笑った。
「いいの。起きちゃっただけだから。ジルアートの顔、見てた」
「私の?………気づかなかったなんて」
ジルアートの指は、櫻の髪をゆっくりと梳いた。
その感触が心地よくて、櫻は青年の肩に腕を回して目を閉じる。
「気持ちよさそうに寝てたよ」
「……少し、驚いています。人が近づいても、普段は目が覚めるので」
「私は剣を向けたりしないから、安心して」
声を出して笑うと、ジルアートは安心したかのように息を吐いた。
名前を呼んで問いかけると、困ったように声を返してくる。
「………あなたを抱きしめている今が、夢なんじゃないかと心配していたんです。あなたは………こんなに、あたたかいのに」
「ジルアート」
「眠りながら考えていました。目が覚めたら、あなたに何と言おうかと」
「……決まった?」
「決まったのは、ただ、………ただ、あなたの名前を、呼ぶことだけでした」
「………名前」
「あなたはアウラだけれど、アウラであるサクラだから。名前を呼びたかったのだと思います。………それで私の思いが伝わればいい、と」
「調子よすぎ」
「………ですよね」
軽く肩を叩くと、諦めたように頷きが返ってくる。
髪に口付けたのか、ちゅ、という音が響く。やけに甘い音だ、と櫻は思った。
「いつか、必ず話します。だから………もう少しだけ、時間をください」
その言葉を、どんな気持ちで言ったのだろう。
櫻は、嫉妬が溢れる胸に目を瞑った。
「……………」
「サクラ?」
「…………キス、して」
ジルアートは櫻の髪を一撫でし、顔を向けさせるべく顎に手をかけて、持ち上げた。……そして、驚いたかのように小さく目を瞠る。
「………サクラ?」
「………っ」
涙が溢れる。
一瞬にして目を覆い、目の縁までを満たす。
ジルアートはそれを静かに見つめ、そっと目を閉じて櫻に口付けた。
櫻も同じように目を閉じる。すると、溢れた涙が頬を伝った。
「………信じてください。サクラ」
「………んっ……」
「私を、信じて」
甘く苦しい奔流に翻弄され、櫻はただ、ジルアートにしがみついた。
「必ず、お話しますから」
「………だめなの?」
ほろり、と再び櫻の目から涙が零れる。
「私じゃ、だめなの?」
「違います。そうじゃない、サクラ」
真摯な目をして青年はそれを否定する。
幾ばくかの間を置き、私はあなたを抱いたでしょう、とジルアートは吐息に紛れて告げた。
「私の家の血は、暗く、濁っている。私も然り。………お話した方が、あなたを安心させることはわかっています。でも、もう少しだけ、私に時間をください。………本来なら、あなたをこの手に抱く時に話せなければいけなかった。………けれど、今はまだ。いつか、必ずお話します………だから、待っていて。私のアウラ」
そう、優しく。
今までに見たことがないくらい、柔らかな笑みで言うものだから。
櫻は小さくキスをして、とうとう最後には頷いた。
今はただ、信じるしかないのだ。
――― ジルアートも、ヴィスドールも。