追憶 ~シェバトの記憶3~
その日、シェバトは焦っていた。ようやく女官たちの中から秀でていると、責任ある役目を仰せつかったというのに、昨夜、アウラの居室に持っていくはずの水瓶を忘れてしまったのだ。就寝前と、深夜の交代時の二回、アウラ付きの女官は水を替えに行く。就寝前には他の誰かが新しい水を運んでいるはずだが、眠りにつく前に他の女官たちの折檻にあってしまったシェバトは、逃げて隠れた物置の中で眠ってしまったらしかった。叱られてしまうのはシェバトの咎だが、美しい主人に不便な思いをさせることだけは我慢がならない。まだ夜が明けきらぬ薄暗い廊下を一人、走っていた。
ひんやりと冷たい空気が、石壁の神殿を包んでいる。薄暗い回廊に、シェバトの小さな足音だけが響く。見張りの兵にきちんと頼んで、扉を開けてもらうしかないだろうが、こんな明け方に居室付近でうるさくしてしまうことで、主人の目が覚めてしまわないか、それだけが気がかりだった。
回廊を、進む。アウラの居室までの廊下は、何度も曲がった迷路のようだが、道筋は一本しかない。だからシェバトはできる限りの速さで歩みを進める。
右へ。左へ。突き当りのように壁があっても、すぐ横には目立たない道筋がある。豪奢な絨毯がずっと敷かれているので、足音がそう目立たないのは有難かった。
左へ。一枚壁が飛び出ているが、右へ迂回すれば通れる。再び壁があるが、それも左へ進む。アウラの居室まで、距離的にはそう遠くない。進めるようで進めない、この回廊の仕組みが少し苛立たしい。迷路ではないのに、目が回ってしまいそうな造りだ。だがアウラの居室へ進むのならば、それも致し方のないことだ。この世界で何より尊いアウラなのだから。………そう、再び突き出た壁を右に曲がったその時だった。
目前に、男の顔があった。
とっさに腕を前に出したが、唐突な出現に、やはりぶつかってしまう。急いでいたからその反動は大きく、シェバトは尻もちをついた。
『ヴィスドール様』
とにかく、勢いよくぶつかってしまったのはこちらの咎だ。アウラの居室へのこの回廊は細く、気をつけなければ二人通ることはできない。ヴィスドールは微動だにせず、シェバトを見下ろしている。
立ち上がって謝ろうと、シェバトは腕に力を入れた。…入れようとして、違和感に掌を見る。
血だ。赤い血が、べっとりとシェバトの掌に付着していた。絨毯をつかんで滑ったのは、その感触だったのだ。
はっとして、ヴィスドールを見る。この手に付着したならば、それは先ほど目の前の男にぶつかったからだろう。白くゆったりとした長衣の方から裾にかけて、斜めに大きな――― 大きな血飛沫が掛かっていたのだ。
こちらを見下ろすヴィスドールの目は、ゆらり、ゆうらり………と、焦点が定まらない様子だった。薄暗い回廊の端々にある小さな灯では、その表情の全ては見えない。寝室は同一のものが許されていないため、結婚しても二人は離れた居室のはず。………なのに。
頬に付着した血すらそのままの姿。まるで、幽鬼のようだ。
頭が衝撃で、がんがんと揺れる。けれど、シェバトは震えながらも細い腕で立ち上がった。
『どうしたのですか。ヴィスドール様。その血は―――』
『アウラが死んだ』
そう告げて、彼はふと思い立ったように両の手を見つめる。どちらも掌が血に濡れたまま。
『アウラは、死んだ』
『……何、を』
『私が、斬った』
『ヴィ………っ、アウラ様!』
目の前の男を突き飛ばし、シェバトはアウラの居室へ転がり込んだ。回廊に倒れている兵士たちも、既に息はないのが見て取れた。
待合室をくぐり抜け、居室の扉に手をかける。
動悸が呼吸のようにこめかみに響く。全身の震えが、止まらない。
――― 扉は既に、すこしだけ開いていた。
『アウ………っ』
そこに、アウラはいた。
真っ赤な、血まみれの部屋の中。
息絶えていた。
* * * * * *
「あいつの真意は?」
その言葉に首を振る。
「私は、何も申しませんでした。けれどヴィスドール様は自らの弑逆を口にされ、審議にかけられました。そこで何があったのかはわかりません。誰もが、死罪であろうと考えたでしょう。………けれど彼は、長い謹慎の後、再び今の任へ復帰したのです。そこに何が関わっているのか、シェバトには与り知らぬことでございます」
「動機は………心当たりもないの?」
「全くございません。すべてが唐突に起こったことなのです。神殿中が驚き、戦慄き………しばらくして、天罰は下されました。アウラが降臨される、島に」
櫻は思い出す。
初めてグランギニョルへ降り立った、あのプラットホームだ。ホームの石遺跡以外、何も残っていない場所だ。デュークが迎えに来てくれなければ、ホームから動けなかったのだった。
「私は参ったことがございませんが、あそこはかつて、一つの島でございました。天罰により、島は崩れ、多くの死人が………崩れ落ちた島から、人々が底へと落ちていったと聞いております」
あの島は、天罰によって失われてしまった。
アウラの降り立つ場所が、アウラの死によって。
………ヴィスドールの罪で。
「アウラ様の死、そのものは避けることができません。アウラとは、神の御使いであらせられますが、それでも人は人でございますから。ですからアウラの死は、新しいアウラを招きます。………櫻様がいらっしゃった日。あの日は、前代の命日でもあるのです」
「前代のアウラが亡くなって、私がくるまでどのぐらい?」
「ちょうど、五年でございます」
………長い。
通常、アウラが天寿を全うした場合は一、二年で新しいアウラが降りるという。
シェバトが幼い頃にも一度、交代があったというが、幼かった頃で記憶は定かではない。
前代のアウラは若くしてグランギニョルに降りたち、在位は長かった。
じゃあ、と櫻はシェバトが思いも寄らないことを口にした。
「結婚したのが、十年前。亡くなったのが五年前。………二人は、五年しか一緒にいられなかったんだね」
ぽつりと落とされた言葉に、シェバトは気づく。
「お疑いにならないのでございますか」
ヴィスドールが妻であったアウラを殺害した。
これは事実だ。
櫻は頷く。
「シェバトが見たのは、信じるよ。六戒の中にも、伴侶を殺してはならないっていうのがあるって、本人が言っていたしね」
それに、と。
櫻は冷静に受け止めていた。聞いてしまえば大した衝撃はない。むしろ、順序立てて考えていけばその道筋は見えてくる。
あれはそう遠い記憶でもない。
“……っ…貴様、ふざけるな!!アウラが罪など犯すものか!!”
“アウラは病死だ。アウラは崇高な存在として我等の中に位置づけられるがそれでもただの人だ。…お前も、気をつけることだな“
ヴィスドールは櫻が前代のアウラの非を確認しただけで激昂したではないか。
思えばあの違和感はここへ繋がっていたのだろう。
様子を思い出せば、ヴィスドールが憎くてアウラを殺害したとはとても思えない。櫻に彼の罪を隠蔽しようとした?………それはない、と心のどこかがそれを判じた。
ではなぜ、ヴィスドールは“病死”と言ったのだろう。
「アウラは、健康だった?」
シェバトは不思議そうに頷いた。
“それでもただの人だ”
ヴィスドールの言葉が、ただ胸に響いた。