追憶 ~シェバトの記憶2~
遠くを見、思案気な面持ちで視線を景色に巡らせながら、囁くような声色で彼女は語り始めた。
「………ヴィスドール……ヴィスドール神官は、ルクシタンという姓をお持ちです。上流貴族の家柄でいらっしゃいますが、現当主は厳格な方で、嫡子のヴィスドール様を随分厳しくお育てになったと聞き及んでおります。ですから多少、癖がお有りになるようですが、あの方はとても優秀な方として、神殿に上がった時から名高いお方でございました。二十代で一般神官の最高位である御官まで登り詰めた、稀なる高貴な方。あの方の代わりができるだけの人材は、今の神殿にはおりません。権力・心力・そして飛び抜けた頭脳。……けれど私が初めてお会いしたとき、その印象はとても、」
冷たい、と――― 。
ひんやりと、研ぎ澄まされた野生の目。
シェバトがヴィスドールに抱いた印象はまさにそれだった。あの頃は、死んだように、眠るように、ひっそりと、この神殿は在った。アウラをその腕深く抱き、岩の如き堅牢な神殿は長い歴史を受け継ぎながら。その薄暗い闇のなかに、静かにヴィスドールは現われた。
「御官のお役目は、アウラ様のお世話をすることです。日々、祭壇で祈りを捧げ、神託を受けるアウラ様をお守りし、安寧の内に終えることが最も大きな勤めであり……このグランギニョルにおける、最も尊い務めでもあります。今のように、アウラ様を支え、知を奉げるのもその一つ。
………前代のアウラ様は既に、四十を過ぎたご年齢でした。とても穏やかな、美しい方で……ヴィスドール様は、次第にその態度を軟化していったと聞き及んでおります。実態は……定かではございませんでした。アウラ様はほとんど外出をなさらない方。付き従うのは剣の主か御官と決まっておりましたが、そのどちらとも、あまりお見かけすることはなく。
――― ただ、ある日突然。噂もなく、本当に突然の出来事でした。
ヴィスドール神官が、アウラ様を娶ると」
アウラはグランギニョルへ神の神託を告げる至高の存在。
当然告げた彼への糾弾は苛烈を極めるものとなった。
「そんな折、謹慎とされたあの方に気づいたアウラ様が、御自ら公となされたのです。私は驚いたものです。アウラ様を妻とすることは前代未門であり、六戒に触れるとも限らない所業。神の御遣いを娶るということでございますから。……ただ、静かに、アウラ様は願われたといいます。その場にいたのは、恐らく最高議会の司祭たちか、元老院の賢者たちか……いずれにせよ、アウラ様の願いを拒むことなど、できるものではございません。結婚はひっそりと、成就致しました」
式もなく。
この神殿の者だけが知る事実。
二人が共にあるものを見た者はなかったという。
「――― 亡くなった後、六戒に触れた他の罪によって、全ての民に知れ渡りましたが」
シェバトは遠くを見つめて眉を寄せた。
目に浮かぶは、遠くに見た小さな小さな、懐かしき記憶。唯一彼女がその目で覚えている記憶。
……ちょうど、この庭園の隅で。
ヴィスドールに手を取られたアウラが、優しく微笑んでいたことを。
それを見つめる彼が、凪いだ表情であったことを。
……シェバトは、見てしまった。
秘された楽園の、欠片を。
「ご結婚自体は、罪ではございませんでした。天罰は下されなかったのです。………起きたのは、アウラ崩御の折のこと。……アウラ様、このシェバトにお聞きになったことは正解でございましょう。………私、私は、」
――― わたくしは、アウラ様弑逆害直後のヴィスドール様をお見かけしたのですから。