追憶 ~シェバトの記憶~
心安らかな、といっていいのだろうか………付き従う女官をそのままに、日常の一部と化した朝の散歩で櫻は思う。
ふと、二歩後ろを付き従う女官に視線をやった。彼女は、一週間ほど前から見慣れた女官の一人である。隙のない装いと凛とした仕草は、年齢以上に彼女の性質を物語っているといえるだろう。冷え冷えとして見える相貌は、あまり変化がない。
今まで身近に配属された女官はパメニを始め、櫻の年齢を考慮してか若い女官が多かったが、彼女はそうではない。端正だが、彼女の容姿は経た年月を表している。今、櫻が首ごと彼女の方へ向けば、すぐに察して近づいてくるに違いないと確信できる、それだけの隙のなさは彼女たちが持ち得ないものであった。……本来ならば。
……本来ならば、女官長の立場であるシェバトはアウラ付きではなく、神殿のあらゆる女官を束ねる地位の者であるのだから、それも当然といえるのかもしれないが。
自然と視線が足元へと下がっていたらしい。ふわりと肩掛けをかけられたことに振り向くと、女官長―― シェバトが、微かな笑みを浮かべてそこに居た。消えてしまうような、淡雪のような笑みだった。
「今朝の庭は、少々冷えるようですので………どうぞ」
櫻は目を細めて、小さく笑みを浮かべてそれを受け取った。
あの事件の日。泣き明かして、金髪の男に会った後のことだ。
気がつけば辺りは何も見えないほど闇に染まっており、空気は深夜だと告げていた。
……ふらり、と立ち上がって、一歩足を踏み出すと、かしゃりと不快な音がした。が、櫻はすぐに気がついた。……どこかで割れた、硝子の破片だと。
履物を探して履くと、手で探りながら扉ごしへ近づいた。耳を当てても、何も聞こえないのを ――そこはただの待合室とを繋ぐ廊下で、外へ繋がっているわけではないのに――確認した。癇癪を起こしたようなものだから、そこに兵でもいるかと思ったのだが、予想は外れたらしい。そこで、微かな肌寒さに震えながら、櫻は考えた。ここで、誰を呼べばいいのだろう、と。
パメニは論外だ。今、自分でも怖いぐらいに冷静でいられているのは、あの夢のような出来事を、本当の夢のように捉えているからだということは、なんとなく櫻も認識している。ぼんやりとした……そう、朧の月のようなもの。見えているのにはっきりせず、それゆえ認識も定かではない。だから、決して受け入れられたわけではないのだ。少しでも昼間のことを思い出そうとすれば、ぐっと胸にせり上がってくるものがある。それを懸命に押しとどめ、どうしようかと思案する……が、考えは一向にまとまらなかった。
ただ、自然と待合室の扉をも開けてしまい、ぎょっとした見張りの兵士に、自然と口が開いたのだ。
『女官長を呼ぶように』と。
「シェバト」
そう振り向けば、シェバトは心得たように一礼し、後ろの控えている女官に指示を飛ばす。するとすぐに、そこには小さなテーブルと茶道具一式が準備された。……確かに、今朝は少し冷えるようだ。朝靄が晴れていないこの時間に合わせるように、ポットから流れる朱色の紅茶は熱い湯気を出していた。
腰掛けてそれを一口口に含むと、熱い液体が、ゆっくりと身体を通るのがわかる。
ほう、と息をついたところで櫻は離れたところに居る女官に呼びかけた。冷えるとわかっていて、無闇に突っ立っていられても居心地が悪い。
「……少し、話がしたいの。あなた、シェバトに何か羽織るものを。しばらく下がっていて構わない」
「アウラ様」
「別に一緒に席についてとは言っていないわ。これぐらい、許してちょうだい」
ともすれば冷たく見える表情に、小さく不満の色が見える。これだけでも十分な進歩だ。櫻は内心それに満足した。初めて彼女を呼んだ夜、シェバトは散らかった部屋を一瞥しても顔色一つ変えず、たった一人で淡々と櫻の着替えと寝台付近を整えると、再び戻ってきては暖かいミルクを渡し、あっさりと一礼して綺麗に下がって行ってしまったのだ。何一つ尋ねず、無駄口を叩かず、てきぱきとこなす彼女に、櫻はぽかんと圧倒されたのである。
………あの夜、闇の中で飲んだ甘いミルクの味を、櫻は忘れることはないだろう。
暗い闇の中で、温かく、白く見えたあの味を。
それからずっと、女官長は呼ぶ度に参じてくれる。淡々に。淡々と。
―――それは、櫻が望んでいた対応だった。
女官が持ってきた羽織を困惑しながらも身に着けると、シェバトは櫻の傍に立った。
そそ、と他の女官たちは下がっていく。櫻が席を立てば戻ってくるだろう。
「シェバト」
はい、と小さな声が応じた。決して大きくはないが、必ず通る声。
温度のないそれは、この数日間で水のように櫻の中に染みわたる。凛とした、背筋が伸びるような声だ。
「あなたが来てくれてから、とても静かな毎日が続いているよね。……ありがとう」
「とんでもございません。アウラ様」
シェバトは深く礼をした。
「でも、知っているのよ私だって。ヴィスや……ジルアートを待合室から私の部屋へ入れないようにするの、結構大変だったでしょう?」
大方、随分粘っていたに違いない。
それを想像して、少し笑った。
「そのようなことはございません」
表情を変えることなく、彼女はただ目を伏せた。……待合室で粘る彼らの声は、幾度も櫻に届いていたのだから嘘に意味はないというのに。櫻は苦笑する。
知っていた。彼らが直に、そして何度も足を運ぶことの意味を。
それを拒絶したのは、櫻の心。それを行動に表してくれたのは、シェバトだった。
だからただ、櫻はお礼を言った。
「……ううん。いいの。本当にありがとう。シェバトがいなかったら、きっとこんなに冷静に、考える時間なんてなかったと思うから」
「…アウラ様」
「ねえ、シェバト。法王との面会まで、あまり日がないよね」
「はい。三日後でございます」
「そう。……だからね、もう、いいかなって思うの。十分、一人になる時間をもらった。一人になりたかったくせに、きっと一人でいたくなかったんだわ。シェバトが居てくれたから……一人だったけれど、寂しくはなかった。そのお礼が言いたくて」
シェバトは複雑そうな顔をした。
「滅相もございません。わたくしなど、大したお世話は致しておりません」
「言うと思った」
「アウラ様は、私共のことまで考えて行動してくださるものですから。…女官としては立つ瀬がございませんでした」
そう述べると、シェバトは初めて表情を緩めた。
「このシェバトに何かお尋ねになりたいことがお有りなのではありませんか」
やはりお見通しのようだ。櫻は首を竦めて応える。
「……わかっちゃったの?」
「ええ、もちろん」
静かに頷く。そしてリードの告げた件でございましょう、と、シェバトは吐息のように告げた。
櫻は、もう動揺しなかった。
「………本人たちと直接こんな話ができるほど、まだ心の準備はできていないの。……でも、シェバトなら、知っているでしょ」
「知らないことも、この世界には多くございますが」
………よいのですか、と確認されているような気がした。
「それでも構わない。シェバト、あなたの知っていることを、教えて。あなたはこの神殿の女官を束ねる者。女官が見聞きしたことは、全て手の内にあるのでしょ?」
「情報としては、存じております。ですが私にその是非はわかりかねますわ。……けれど、あなたが望むのであれば。アウラ様。私の知る全てを、お話し致しましょう」
そう言って、再び深く、深く礼をした。
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