蕩ける闇5
母は、弟を愛していた。
父は、弟を愛していた。
―― わたしは、独り。
端から見れば平和な家族だったに違いない。貧しい家庭ではなかったし、誰かが欠けることもなかった。それに、私も弟もきちんと大学を出て、就職までしたのだもの。世間に晒されて恥じるような要素はなかったはずだ。
母は、昔からそうだった。
私は子供の頃の記憶といえば、母に叱られた記憶ばかりだ。繰り返し、母は自分も叩かれて叱られて育ったというけれど、今思い起こせばあれは虐待の一歩手前だったいえるだろう。
………何か、すれば、叩かれた。子供なら間違いは誰だって犯すけれど、叱られたら繰り返さないようにするだろう。私の場合、何度も何度も叩かれるものだから、一度犯してしまった過ちは、二度と繰り返さないようになった。
その点、弟は違った。今思い返してみても、あの子が叩かれたところが思い出せない。きっと叩かれなかったことはないだろうけれど、私の記憶に眠ってしまうほど、それは少なかった筈だ。母はいつも、二人を比べることなどない、どちらも同じようにと言っていたけれど、よくよく思い返してみればあんなことを口にすること自体、不平等を意識していたからだったのだろうから。
………父は、私を確かに愛してくれていた。
ただ、明るく朗らかな人だったから、同性の弟が育つにつれて、親近感を持っていったのだろう。何かにつけ、弟の話はよく理解できるようだった。まるで、一番の理解者のように、何かあれば弟の話を聞いていたように思う。
けれど、愛情を感じていた。私だって、感じていた。ただ、いつまでたっても、一人前の扱いをされないだけ。精一杯頑張れば、褒めてくれた。だから、一度ついた教職に満足せずに、進学を決意したのだ。
………でも。頑張るだけ頑張って、どんなに良い成績を取っても。父は、学生に戻った私を更に半人前扱いするようになった。入れ替わりで大学を卒業し、有名な企業に勤め始めた弟と比べて、一人前にも満たない、というように。
あの家は、苦しかった。
息をするのも、苦しかった。
愛していなかったわけではないはず。
それでも、グランギニョルの居場所は嬉しかった。
あなたが、大切なのだ、と。
そう求められることがどんなに嬉しいことか、あなたにわかるだろうか。
優しく肩を支えてくれる掌が、嬉しかった。
視線をやれば、すぐに柔らかな眼差しで応えてくれる藍色の目が、好きだった。
たとえこれが、恋でないとしても。
あなたに愛されるのが、他の女性だったとしても。
――― これ以上は、壊れてしまう。
わたしが壊れたら、グランギニョルも、壊れて、しまうのでしょ ?
……いけない。
それだけは、防がなければ。
だって、あの人が ―――
あの人が、あの優しい人が、
生きる世界だから。
* * * * * * *
『アウラ』
懐かしい、声がした。
顔を上げると、そこには散らばった硝子の残骸や、引き裂かれたカーテンたちが見えた。荒らされた後のような部屋は、疲れ果てているこの身体が覚えていた。……感触がまだ、この手に残っている。
音もなく、その人は目の前に立っていた。
『……立てるか』
声もなく頷くと、同じように静かにそれを返した人は、ベッドに座るように促した。この部屋―― 他の部屋もそうだが――、の中で唯一無事なのは、この大きな寝台だけだったからだろう。
ゆっくりと裸足の足を乗せると、深く沈む、柔らかなベッド。その感触に心が凪いでいくのがわかる。
ほう、と息を吐くと、無表情だった彼の表情が緩んだような気がした。
『……落ち着いたようだね』
項垂れるように、頷いた。既に三度目の邂逅となる”彼”は、瞳に何の感情も映さずに、淡々とそこに佇んでいる。
ごめんなさい、と呟いた。聞こえないほど、掠れて小さくなった声に、否応なしに無力感が襲ってくる。
『何の、謝罪だ?』
「………最後の罪に、触れてしまったのではないの」
最後の罪は、「アウラの慟哭」。
これに触れてしまったのではないかと思うと、汚れた手がベッドの上で震えてくるのがわかる。
彼は俯いた私に合わせるかのように跪いて、頬に触れるように手を差し出した。
『大丈夫。此度のことはまだ、罪ではない』
瞬間、私と彼の視線が合わさった。
青いとばかり思っていた瞳は、間近で見ると緑を含んだ色にも見える。
『アウラ。今の私は君に触れることが出来ないんだ。……どうか、泣かないで』
頬に触れているかのように指を滑らせるそれに従ってそこに触れると、確かに涙が零れていた。
『君が見ている私は、ただの映像に過ぎない。実体は”あちら”にあるのだから』
「あちらって……?どこのこと」
『君もいつか知ることだから。……それより、覚えておいて欲しい。この世界で、あなたが悲しむことなど何もない。あなたという意識と、身体は、別のものだ。だから悲しまなくていい。泣かなくていい。そんなことのためにあなたはここにいるわけじゃないんだ』
美しい、人形のような相貌。それが切なそうに告げるから、私は再び、涙を零した。
『アウラ』
「私は櫻よ」
知っている、とばかりに彼は頷く。
『……そうだね。今はそうだ。”櫻”は今の君の身体だから。だが、あなたは違う』
「どういうこと?」
『……いつか、わかる。さあ、今はもう、泣かないで。本当は会ってはいけなかった。それが約束だから』
「どういうことなの?何もわからないわ!ちゃんと説明して」
『あなたと私の約束なんだ。いつかきっと、話すから。………だからもう、泣かないで眠って』
とん、と肩を押されたような感触に、ベッドへ落ちる。
急激な睡魔が襲ってきて、視界が閉ざされる。
―― 最後に見たのは、懐かしいと感じた、金色の髪だった。