蕩ける闇4
リードは本当にリスのようにちょこまかと動き回る。楚々と動くことを良しとする女官たちの中で、ぴょこぴょこと動く彼女の動きはどこか微笑ましい。だが、彼女の瞳は興味に爛々としているのがわかる。
……あまり、関わらないでおこう。櫻はすぐに結論を出した。
「アウラ様。動かないでくださいませね。このあてた布地を、アウラ様のお体に沿うように針で止めて参りますので」
「針っ?」
ええ、と言いながらも目線は既に布一直線。
胸元を真剣に見つめられると気恥ずかしいのだが……いやいや、そうじゃなくて。
「な、あ、危ないよ!動けないじゃない」
「ですから、動かないでくださいと申し上げたのですわ」
「そんなドレスの仕立て方したことないけどっ」
ぴん、と背筋を強張らせたまま櫻は言った。身体のあちこちで女官たちが布を止めていく感触を肌で感じるからだ。首を動かすのも怖いので、結果的にリードとは違うそっぽをむいたままの会話になる。
「通常のドレスとは異なりますもの、当然ですわ。神殿でのアウラ様の正装ですもの、他と同じものなど恐れ多いことなのです」
その間にも、衣擦れの音がする。
ふと鏡に映った自分を見れば、なんだか……シーツを纏った格好のようで、なんだか変だ。
けれどよくよく見れば、ヴィスドールが来ている神官の衣装に似ている気がした。あれはもっと、一枚か二枚の布を肩から引っさげて腰で止めたような大雑把で緩い服だったが、根本的な形が似ているように思う。
「ねえ。これがまさか、ドレスなの?」
「そうですわ。神官殿方の御衣裳に似ておりますでしょう」
ぱっちりと長い睫をまたたかせて、リードが応える。衣擦れの音を立てながら、幾重もの手触りの良い布地が肩を滑っていく。
……難しい複雑なドレープを描いているようだ。櫻の頭の中に浮かんだのは、ギリシャ時代の服装だが、こんなに重装ではあるまい。
第一あれはサンダルか何か履いていなかったか。こちらは引きずる布地の中で、足がつるようなヒールの靴を履かされるというのだから、こちらの方が始末が悪い。
はあ、と思わず溜め息がもれたのを、小さな女官は見逃さなかった。
「お疲れでしょうか」
「えっ、ううん、いや別に」
本当だ。別に彼女に非はない。
周りを囲む女官も自分の仕事を全うしているだけだろう。
……ただ、この衣装作りが憂鬱なのと、パメラが傍にいないことが……。
ああ、そうか。と櫻は思い当たる。
パメニが傍にいないことが不安なのだ。
それに―――
「ですが先ほど重い溜め息を……」
祖父に怒られてしまいますわ、と潤んだ目で見上げるリードに意識を戻される。
可愛らしい女官を落ち込ませてしまうのは本位ではない。
それに、こんなことでアウラが我侭だと評されても困る。
そう。櫻自身への評価は、櫻だけのものでもないのだから。
考えて、とっさに青年が脳裏に浮かんだ。
「本当に大丈夫だから。気にしないで続けて」
笑って見せると、リードは幾らか安心した面持ちで作業を続行した。
その間にも、今度は話しかけてくる。
「でもアウラ様。何かお思いのことがお有りなご様子。リードにできることはありませんか?祖父に申し付けられておりますから、リードもアウラ様に何かしたいのです」
「おじいさんが……。私に?」
はい、と素直にリードは頷いた。
「わたくしの祖父は、現在のグランギニョルの法王なのです。祖父がアウラ様にお目にかかる機会のために、わたくしにできることがあれば力を尽くすようにと申し付けられているのですわ」
「はあ。……って、法王?!リード、あなた法王のお孫さん……」
パメニもそうだが、どうしてこう、高位の縁者が女官で派遣されるのだろう。
それだけ”アウラ”が重要な位置だということか、と内心嘆息する。
気を取り直して櫻はリードに視線を向けた。彼女に好印象を与えることは、法王にするのと同じことだ。
「大丈夫。こうして準備を手伝ってくれるだけで、十分私は有難いし」
「……そうでしょうか……ではなぜ、溜め息など、お吐きに……」
随分しつこい。空気が読めないのだろうか。
……まあ、法王の孫じゃお嬢さまの筈だから……落ち着け。落ち着け。
眉を顰めそうになるが、慌てて他の表情でやり過ごす。
「ジルアートはどうしたのかなと思ってただけなの。いつもね、ヴィスドールが来るときは待機室で待っていてくれるんだけど、もしかしてまだ待っているのかな、って。別に入ってきてもいいのにね」
朝食後のお茶の時間、ヴィスドールと鉢合わせするのがイヤなのか、ジルアートは顔を出さないことが多い。ヴィスドールの訪れが増えたせいで、ジルアートが待機室で待っていることも多くなった。
今朝などまだ顔を見ていない。
自然と櫻の眉が顰められる。それを見たリードは、きゅっと布地を握り締めた。
「………キルセルク家の跡継ぎのことですわね」
「うん。私の剣の主なんだって」
思わず、笑みが浮かぶ。
自分のものではないのに、櫻の相方のような表現がなんだか気恥ずかしかったためだ。
……だが、リードは反対に沈黙した。
「リード?」
「………アウラ様」
「うん?」
他の女官は黙々と手を動かしている。
再び、静かな衣擦れの音が響く。
しばらくして、リードは俯いたまま、震える唇を開いた。
「……っ……わたくしは、いえ、グランギニョルの民は皆、アウラ様を崇拝しております。異世界より神の御使いとして降り立った貴女様をお迎えできることは、幸せです。このように御身の近くでお仕えできて、わたくしは本当に嬉しく思っているのですわ」
「う、うん。ありがとう」
「ですが、」
きっと、リードの大きな瞳が櫻に直撃した。
激情を孕んだ目。
櫻は動きを止めた。
周りの女官も、はっと息を詰めたのがわかる。
リードは感情も顕わに叫んだ。
「そのアウラ様の一番近くに侍るのが……よりにもよって、キルセルクの跡継ぎなど……っ……教育係とは名ばかりの神官もそうですわ。どうして……どうしてあの者たちなのです!アウラ様を慕い、敬うものはこのグランギニョルに溢れています。それなのにっ!………あの者たちは、アウラ様、咎人……罪人なのですよ?!」
なぜなのです、という言葉は、櫻の耳に届かなかった。
震える可憐な唇は、恐ろしいことを口にしたからだ。
「ご存知なのですか、アウラ様っ。六戒の内の二つの罪は、あの二人によるものですのに!」
全身が、震え上がった。
リード様、と慌てて他の女官が止めに入る。
けれどリードは、感情の堰を切ったように涙を流しながら叫んだ。
「どうして……っ?おじいさまは、真摯に前代のアウラ様にお仕えしておりました。なのに、あの男がっ。ヴィスドールがおじいさまを法王などに、追いやった!こうしてお世話をするのは、おじいさまのお役目であった筈なのに、あの男……汚らわしい……っ」
やめて、と口が開いた。
だが、声は届かなかった。
「ヴィスドール……あの男は、前代のアウラ様を穢したのです……っ。あの方を妻とするなど、恐れ多いこと。なのに、なのに……っ!あの男がやったに決まっています!アウラ様を弑逆したのは、ヴィスドールしかいないわ!」
「リード様!」
「ご存知なのですか、アウラ様」
涙に濡れた目で、じぃっとリードは櫻を見つめた。
「キルセルク家も罪深き一族。汚れた血の一族。ましてや、あの者は六戒の一つを踏みにじった男!そんな男を傍にお置きになるなんて………っ」
「リード様、おやめくださいっ」
「いいえやめないわ。お前たち、下がりなさい!やっと得たこの機会に言わずになど済ませるものですか!」
「リード様……っ」
女官たちを押しのけ。
ご存知なのですか、とリードは掠れた声で呟いた。
再び、やめて、と心が叫ぶ。
嫌な予感が胸に溢れる。
「キルセルクは穢れた一族。あの跡継ぎは、実の姉と関係を結んだのです。姉弟で契りを交わした、穢れた罪深き男なのですよ!」
「やめて!!」
櫻は目を瞑って耳を覆った。
やめて。やめて。
「……出て、いきなさい……っ」
「アウラ様!わたくしは……」
「出て行けと言っているのが聞こえないの!」
櫻は手近な大きな花瓶を掴むと、リードの近くの床で叩き割った。
がしゃああん、と大きな音で花瓶が砕け散る。女官が悲鳴を上げた。
「ひ……っ」
「二度と顔を見せないで。法王の孫でも、私は二度と会いたくない!出て行きなさい!!」
女官たちはリードを引っ張って、逃げるように退出した。
――― やめてよ。
もう、なんなの。
――― これは、アウラだから、なの?
人気の無くなった部屋で、櫻は大粒の涙を零す。
「……っもう、やだぁ……っ……」
リードが告げたことばが、”事実”なのだとわかる。
櫻の中のアウラが「そう」なのだと、告げるように。
………もう。
何も、信じられない。
誰も、信じられない。