蕩ける闇2
「……お前も、愚かな子じゃて。こうもわしに這い蹲り、赦しを得たいか。……違うな。彼女を守るために自ら身を投げ出すか。……そうまでしても、彼女が愛しいか。ジルアートよ」
穏やかな眼差しで、老人はジルアートの髪を撫でる。その皺だらけの指先が首筋を辿ろうとも、身を投げ出したままの彼は微動だにさえしなかった。広い寝台の上で、かすかに呼吸をしているだけだ。その瞳はうっすらと開いているが、焦点はうつろで光は見えない。
行為の後の彼は、いつも同じだった。だから老人はそのままくっくと笑い、一人で言葉を続けた。
毎回最も青年が求める言葉を。
この言葉こそが、身体を投げ出して得る赦しであった。
「アジェリーチェは健やかだ。恙無く、お前の願うとおりにしておるよ……ではまた、な」
そう告げると、闇夜の如き外套を羽織り、扉の向こうへと去っていった。
* * *
ちゅんちゅん、と鳥の声がした。
ぱっちりと開いた目は、これ以上ないほど見開かれている。はっと握り締めたシーツが胸元でくしゃくしゃになっていた。
「……なにあれ」
なに、あれ。
もう一度、心の中で繰り返した。声にしたのは心の澱みを吐き出すためだ。
暗く、汚れた、不可思議で醜い悪夢。
「………っ」
ごろり、と身体を転がす。広い寝台は、けれど夢の中の物とは全く異なるものだ。
そうであるのに、櫻は嫌悪を感じて飛び起きた。少し乱暴に水差しを手に取る。透明で青いそれは、いつもならすがすがしい気持ちを与えてくれるというのに、それに見向きもせずに水を呷った。かすかに咽て、顎を伝った雫を袖で拭う。
……と、瞬間。
老人の指が青年の顎をなぞるのを思い出し、強くグラスを卓に叩きつけた。
「なんなの」
あのおぞましい映像は何だ。夢だというのか。
たった今の今までその現場に居合わせたかのような感触が、まだ櫻の中に残っていた。
ふと窓の外を見れば、あたりは薄もやの中にはあれど、もうすぐ眩しい太陽が射し込むだろう時刻のようだった。
もうすぐ、パメニを初めとする女官たちが部屋に入ってくる。同時に、待合室にはジルアートが待機するはずだ。
……今朝だって。
けど、と瞬間過ぎった疑念に、櫻は眉を顰めて再びグラスに水を注いだ。卓に零れた水滴が、まるで涙のようだ。
一気に再びそれを飲み込むと、力をなくしたように傍らの椅子に沈み込んだ。
……知っていた。
そう多くはない頻度だが、目覚めた時刻に青年が待機していないことがあることを。
強い石鹸の香りがするから、どこか朝帰りでもしているのかと、勝手に胸を痛めていたことだって、ある。
だけどそれが、あの夢と何の関係があるというのだ。たかが夢だ。
………されど、
「違う!」
震えるのは、あの老人の笑んだ口元がおぞましかったからだ。
消えない恐怖。
まるで、夢の中の青年が抱く感情をダイレクトに流し込まれたような原初的な震えに、櫻は恐怖した。
自分の身体でないように、震える身体を両手で強く抱く。
早く。
早く、ここへ来て。
お願い、この震えを、止めて。
けれど、その日の朝、青年は現れなかった。
昼も近い頃、櫻の前に現れると、微かに石鹸の香りをさせたまま、いつも通りに微笑んだ。
「こんにちは。私のアウラ」
短くてすみません。
ここまでが「蕩ける闇」の始まりです。