繋がれた手3
きらきら。つやつや。ふわふわ。
まばゆい世界が視界を包む。
ひらひらと舞うように翻る店員たちのドレス。ピンクや薄紫のシルクのそれが、蝶のようにふわふわと踊るように動く。
「まあ、お似合いですわ」
「かわいらしい」
「本当に、お可愛らしいこと」
「まあまあ」
「こちらはどうでしょう」
「よろしいのでは」
「よろしいでしょう」
「さあ」
「さあさあ」
「お嬢さま」
……。
………!
…………!!
…………櫻は眩暈で揺れるような視界で、それでも足を踏ん張って転倒から免れた。次々に華やかな衣装を手に櫻の元を訪れる店員たちは、店の装飾にも劣らぬ華美さで櫻を圧倒する。美人ぞろいなのに押しが強いのは、アパレル業界におけるモットーなのだろうか。
櫻は装いに興味がないわけではない。決してない。人並み以上におしゃれは好きだったし、洋服を揃えるのだって好きだ。だからこんな状況にだって、慣れていないわけではないし、あしらい方だってまあまあ心得ている。
だが、とちらりと店の隅に視線を向けた。
……こういう接客の店はあまり好かない。素材やデザインに自信があり、必要以上の接客をしてこない店が本来の櫻の好みだ。……だが、そんなことは全くわかっておらず、むしろこの様子が好ましいものであるかのような人物がいた。
そう、あの視線さえなければすぐにでも退散していた。
櫻の恨みがましい視線にも全くめげず、にこにこと普段以上の笑顔でこちらを眺めている青年の押しさえなければ。
「お嬢さま」
一瞬意識をあちらに向けている隙に、敵は思った以上に近づいていた。
ぎくりとした時、彼女の目がキラリと光ったのは幻ではあるまい。そそそ、と櫻にドレスを合わせ、そのまま肩を持ってくるりと姿見の鏡へ向ける。
「よくお似合いですわ。少し大人しい、大人色の方がお似合いかもしれません」
それを聞きつけた他の店員は、まあと大げさに驚いて、その上から明るい色のドレスを当てた。
ピンク。櫻の頬が引きつる。
明るい色である以上にパステルカラーのピンク一色など着られる年齢ではない。
しかしさらに他の店員がドレスをあてがおうとするので、重なったドレスに重みを感じた櫻は堪えきれずに青年を呼んだ。
ここに到着してからこちら、にこにこと眺めるだけだった彼女を守るはずの剣士は、軽い足取りで櫻へと近づく。
満面の笑みを湛えたままで。
そこでワルツでも踊るつもり?!と内心叫びたくなったのをぐっとこらえる。
違う、そうじゃない。優雅さはこの際どうでもいい。
「……ここには一体、何しにきたのよっ」
「アウ…櫻の衣装を仕立てるためですが」
それが何か、と再びにこにこ。その笑顔に櫻は頭を抱えた。
草原から足早に移動させられるから何かと思えば、ほいほいとデュークに乗せられ。ある島で降りたかと思えば迷わずこの歌劇場のような出で立ちの店に放り込まれ。その後はくるくると入れ替わり立ち代り、美人の接客という名の猛攻撃を受ける羽目になったのだ。
意味がわからない。全くわからない。
ドレスなど、まだ袖を通していないものがごまんと衣裳部屋にあるのを櫻は知っている。ほとんどパメニが選んでくれるし、さほど不満もないから把握し切れているとは言いがたいが。
「ドレスなら、たくさん持っているけど」
「私からお贈りしたかったのです。ですからまずは、色と素材を選んでいただかないといけません」
そう会話が続いている今も、次々に色々なドレスが櫻の身に当てられてははずされ、を繰り返している。動かないように背後から固定されているので、櫻は鏡越しにしかジルアートを見ることが出来ない。
悪気の欠片も見当たらない上機嫌な顔の青年に、櫻はまたしてもげんなりした。
あの顔に怒気はそうそう続かないのだ。
「こ、こんなに色んなものを当てられても、選べないよ!」
半ば悲鳴のように櫻は言った。
するとジルアートは首を傾げて、そうなのですか、と問い。
周りの店員たちは上品に、くすくすと笑い始めた。
「まあまあ、お嬢さま。殿方のご好意には甘えて差し上げませんと」
「そうですわ。ましてやキルセルク家の方のご好意ですもの」
「キルセルク?」
僕の家名です、とそっと耳元で告げると、それでは、と青年は自ら店内を歩き出した。
櫻は思わず口をつぐむ。ジルアートの家のことなど何も知らない。知らないが、だからといって周囲の彼女たちに聞けるはずもなく。
でも聞きたい。とうずく心をぐっとこらえる。
ジルアートは華麗な足取りで店内のドレスを物色していく。この店のドレスはどれも同じサイズで、あくまでもドレス作りのためのモデルでしかない。手にとっては櫻を見、再び他の衣装に目を移していく。
どうやらジルアートが自ら選ぼうというらしい。
似合う色やデザインを見つけられるのは何だか面映いが、アパレル女子軍団の猛攻勢よりはましだろう。
そっと息をついた時、うっとりと傍らの店員が口を開いた。
「いいですわねぇ、お嬢さま。あの方のお目に留まるだなんて」
「…。あの人、有名なんですか」
まああ、と目を見開いてこちらを見つめる店員に、失言だったかと背筋を伸ばす。
大層有名な家柄でいらせられますのに、と単なる驚きで終わったのは僥倖だろう。
けれど、続く言葉に櫻は息を止めた。
「ま、あの方自身ではありませんわね、確かに。うちのお得意様ではありますけれど。でもお客様もご存知でしょう?……家名は誰もが知る、恐ろしい…」
櫻、と呼ばれた遠くの声に、はっと意識を戻す。そして足早に店員の傍から青年の元へ近寄った。
聞いてはいけない。櫻の意識がそう告げる。
「何か」を聞くなら、本人の口でなければだめだ。
ジルアートのことは、櫻はほとんど知らない。
けれどあの青年の心だけは信じようと、決めたばかりなのだから。
近寄ると、微笑んだままのジルアートが一枚のドレスを手に翻した。
柔らかな物腰で鏡の前までエスコートされると、ふわりと櫻の前にワイン色をしたドレスが当てられる。
「こちらをどうぞ。レディ」
櫻は、思わず目を瞠った。
「いかがですか?やはり、このぐらい濃い色の方があなたにはよく似合う」
色白の櫻に、赤より深みのあるワインレッドはよく映えた。光沢のあるその素材も美しい。
鏡を見た瞬間、これは似合う、と櫻は思った。似合う服は、瞬間的に当てただけでそれがわかる。そういう意味では櫻に合う服は限られている。
けれどそれがこんな豪奢なものだとは。それに着たこともない色だ。
「……こんな豪華な色、似合う、かな」
「ええ。とても」
ふふ、とどこかくすぐったそうに笑う青年に、櫻はじろりと睨み上げた。
年齢さ以上にある身長差のせいで、ジルアートにとってはそれも可愛らしい仕草に見える。
「なぁに?何がそんなに可笑しいの」
「可笑しいとは心外ですよ、アウラ。アウラに似合うものを私が見つけられたことが、嬉しいのです」
恥らうあなたを見ることができたのも、眼福ですが。
そう小さく呟いて、櫻の顔を真っ赤に染め上げる。
「……慣れているのね」
嫌味のつもりで言ったのに、彼はあっさりと頷く。
「姉の衣装を何度も選ばされましたから」
でも、とジルアートは恥ずかしそうにはにかんだ。
「家族以外の女性に衣装をお贈りするのは初めてですよ」
……恥ずかしさだけではなく、色々こみ上げて来る感情に。
櫻は思い切り青年に頭突きした。
あいた、と笑うジルアートは、けれど驚く様子もない。
そのままぐりぐりと頭で突く櫻の後頭部に手を添えて、ぽんぽんと宥めてやる。
「私のアウラは本当に恥ずかしがりなのですね。でもそういうところ、とてもかわいらしいと思います」
「……っ。そんなことより!何で急にこんなところへ連れてきたのっ」
頬の紅潮覚めやらぬ櫻は、無性に恥ずかしく、腹立たしかった。
年齢も随分下の青年にしてやられてどうする。
その青年は、さらりと苦笑しただけだった。
「……私がただ、あなたに衣装を贈りたかった。それではいけませんか」
「あんな草っぱらでそんなことを思いつくくらい、私の話が退屈だったというならね!」
「ち、違います、アウラ。そうじゃなくて……」
「じゃあ、何なのよ」
既に店員も視界に入らない。恐らく邪魔にならないように気を利かせたのだろうが、ジルアートはたじたじとした。
年上のこの女性は、何かにつけ反応が淡々としているかと思いきや――実はそうでもない。男女のことに関しては、こんなに照れ屋で恥ずかしがる。今だって、恥ずかしさに頬は紅潮し、心なしか涙目だ。
「お、怒らないでください。私はただ、」
「…………」
「た、ただ…………」
ジルアートは、じと目に負けた。
「……あなたの世界で、あなたは買い物に行こうとしていたのでしょう?」
「…………」
「それを奪ってしまったのは、こちらの世界の咎なのです。ですからせめて、グランギニョルの衣装をあなたにお贈りしたかった」
櫻は、この青年にも言えないことがあるということを、思い出す。
夢で見た青年― 彼は「箱庭」の管理者だと名乗ったが ―が告げた、櫻の世界に「消却命令」が出され、世界が消えたということを。
それを櫻は誰にも告げていない。…口にすることなど、きっとずっと、出来はしないだろう。
口にしてしまえば最後、それは幻ではなく、櫻にとっての「現実」となるのだ。……恐らくは。
そのことを知らないジルアートは、櫻がグランギニョルへ来る経緯を聞いて、何を思ったのだろう。
どうして。
こんなに。
「……贖罪の、つもり?」
口を付いた言葉は、思ってもいないはずの、ジルアートを刺す剣のような言葉だった。
思ったより、乾いた声だ。
ああまるで、と櫻は思う。
まるで本心が、勝手に飛び出てきたみたいじゃないか。
良くしてもらっている自覚はある。目の前のジルアートに罪はない。そんなこと、知っていた。
……知っているのに、なんて私は。
けれど、ジルアートは顔色一つ、変えなかった。
そうしてしばらくの後、逡巡しながら首をゆっくりと、横に振った。
「そんなこと、どうやってもできません。あなたを連れ去ったこの世界の民である私が、あなたに罪を赦されることなど、ありはしない。……けれど、あなたは笑ってくれた。この世界を守りたいと、そう言ってくれた。そのあなたに、私は何ができるのか……考えていました」
しんとした室内が、二人の間に落ちる。
「……でも、今でも答えは出ない。……出ないけれど、あなたの話を聞いて、思ったのです。……ただ。この世界にも美しい服があり、あなたを笑顔にできるだけの、美しいものがあるのなら。それをあなたにお贈りしたい。……ただ、そう思って。」
ジルアートはドレスを傍らに置くと、櫻の頬に指先で触れた。
とまどう様子の櫻に、ジルアートは泣き笑いのように微かに瞼を伏せて見せる。
「あなたの笑顔が、見たかった。この世界であなたを満たして、笑って欲しかった。……ただ、それだけなのです。アウラ」
誰もいなくなった広い店内で、姿見の鏡についたカーテンがふわりと揺れる。
ジルアートは静かに跪き、立ち尽くす櫻の服の裾を掬うと、恭しくそっと、唇を寄せた。
そうして再び櫻を見上げ、目を瞠り、すぐに柔らかな笑みを櫻に向けた。
「……もし、お厭いでないのなら。どうか笑顔を見せて。私の、アウラ」
―――そう、秘事のように呟いて。
櫻の頬を伝う雫を拭うべく、彼は腰を上げた。