繋がれた手2
二人が流れる雲と広がる空を眺め、しばらく経った頃。
つと、ジルアートの視線が隣の櫻に向いた。…こんな時間なら、聞けるだろうと思ったからだ。
「アウラ」
「ん?」
空を見上げたままの櫻を、青い瞳が見つめていた。それにも気づかず、ぼんやりと返事をしたのだろう。櫻の視線は少しもぶれることなく空を映している。
見上げた彼女の顎から喉へのラインが、やけにはっきりとした輪郭で美しいなとぼんやり思う。
大しても知りもしない彼女は、けれど自分が待って待って、焦がれた存在だった。
月のような、夢のような。朧の中にひっそりとあった存在であるのに。
……なのに今、それは手を伸ばせば触れられる位置に居る。
それが未だに夢の続きのようで、少しだけ、ジルアートの腕が櫻に近づく。…近づいて、触れないままにそれは止まった。
「……あなたのことを、教えてくれませんか。私は、」
あなたが、知りたい。
ただ、そう告げたことに他意はなく。ただ、ただ。本当に知りたかったのだ。
この世界に降り立った彼女は、立派な大人の女性だった。美女が過ぎるわけでも醜女で直視しがたいわけでもない、平凡な。でも女神のような畏怖を覚えもするし、その平凡さに違和感を覚えもする。
ヴィスドールに対峙している時は聡明そうな横顔を見せるのに、パメニと笑い合っている時はまるで少女のようだ。
……けれど、短い時の中でジルアートは知っていた。
ジルアートが「私のアウラ」と呼んだ時の櫻のその表情が、彼にしか見せないものであるということを。
子供の独占欲のような些細なものだけれど。ジルアートは微かに困ったような、照れたような彼女の顔が嫌いではなかった。
けれど、ああ、とこの時ジルアートはそれを悔やんだ。
……傍らで、ようやく振り向いた櫻を見て。
はにかんだように笑んだその顔を、どうにかこうにか堪えようと懸命なその姿。
それは正しく、ジルアートが櫻を「かわいらしい」と思った瞬間だったから。
「どうして知りたいの。別に大したことなんか……」
ないのに、と小さく落とした呟きに、ああ照れているなと思いはするものの、だからといって止めようとは思わなかった。
不躾なのはわかっている。会って間もない女性に「あなたのことが知りたい」などと、まるで口説き文句のようなそれ。全くそんな気はなかった自分が不思議なくらいだ。
「何でも。ただ、知りたいと思っただけです。…あなたは、私のアウラだから。けれど私はあなたのことを何も知らない」
「それを言うなら私だって知らないよ。ジルアートのこと、何にも知らない」
「そうでしょうか」
そうだったろうか。もう随分色々なことを話した気でいたようだ。
でもそれは、肩書きなどのラベルではなく。その中身について、ではあるが。
「そうよ」
櫻は大仰に頷いた。
気がついたら向かい合うように寝そべって、互いの口元には笑みが浮かんでいる。
なんだか眠くなる。ジルアートは目を細めてそう思った。眠りに落ちるわけではないが、なんだかぼんやりと、ふわふわしたこの雰囲気はとても、眠くなる。
「私のことなど知っても面白くもないですよ」
「それを決めるのは私でしょ」
「でも、私はアウラのことが知りたいんです」
「…わがまま」
「いけませんか」
甘えているみたいだ、とジルアートは胸に迫る感情に蓋をした。
困ったように目を逸らす櫻は、年上の余裕など感じない。ただの少女のように恥ずかしがってみせる。それがどこか、けなげで。
「私のアウラ。どうか教えてはいただけませんか。私はもっと、あなたのことが知りたいのです」
「…だから」
「はい」
「どうして知りたいのよ。何が知りたいの」
「何でも。…でも、どうしてでしょう。私にもあまり、よく。…でも、ただ知りたいと思ったから」
いけませんか、と再び。小さく首を傾げてみせる青年に、櫻は頬の紅潮を隠すように言った。
「…っ、だから!わかったもういい、話すって。何を話せばいいの?」
「ですから、何でも。あなたが話すあなたのことなら、何でも構いません」
しばらくの時間を取り戻すような行為だった。
櫻はそれに気づいたのか、少しの沈黙の後に、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「面白くないと思うけど…いいよ、何でも話す。自己紹介みたいなのをすればいいのかな」
「ぜひ」
あなたのことなら、と続くので、櫻は呆れたように再び空を見上げた。
「とはいってもねぇ…。あ、そうだ。私電車に乗ってたの。あれはきっとグランギニョルにはないわ」
「デンシャ?」
「そう、電車。初めて会ったとき乗っていたでしょ、アレ」
「ああ……――?」
思い浮かべようとして、ジルアートはつと、眉を寄せた。
箱舟のことを言っているのはわかる。実際にこの目にしたのだ。アウラを乗せた箱舟―――だが。
「まさか覚えてないの?長いの、見たでしょ?あの乗り物よ」
「長かったことは覚えていますが………困りました。全く形状を覚えていないみたいです」
「……何でまた」
「アウラの顔しか。…あなたの顔しか、覚えていません……困ったな」
「……」
本当に嬉しかったから。
そう告げて、心底困ったような顔で悩むジルアートに、櫻はあっけにとられ、次に呆れた。
無自覚なのは承知している。そんなことで一々思わせぶりだと受け取っていては埒が明かない。昨晩のアレですら純粋な好意なのだと知っているから尚更である。
きっと数々の女性を知らずの内に手玉にとって来たに違いない。…本人が聞けば全力で否定するだろうその呟きは、残念ながら本人の耳に入ることはなかった。
「あれは私のいたところでは普通の乗り物なの。デュークみたいに使ってた」
「あんなに長いものに、ですか?」
「そう。もっとも、あれ一杯に人が乗るから。長いのは大人数を一度に乗せて走るため」
「人が…多かったのですね」
グランギニョルは島の移動はデュークが主だが、そもそもあの長い乗り物に乗るほどの人が移動を行なうことはない。
大抵、店の並ぶ付近に人々の家々は密集するからだ。だから島ごとに街ができて、そこで移動の必要もなく多くはその人生を終える。
よっぽどの興味関心の持ち主か商人か、そうでなければ島の外に出たいとは思わないだろう。
違うな、とジルアートは思った。
街の状態も、あの乗り物の使い道も、規模も、何もわからない。わからないが、何だか自分の知っているものとは違いすぎる気がした。
それを知っていて、当然のように話す櫻がどこか、不思議だった。
「私あれにのって、買い物に行くところだったの」
休日だったから。そういうと、懐かしそうに少しだけ微笑んだ。
そして、気がついたらここに居たんだけど、と苦笑する。
「買い物…ですか」
意外だったのかもしれない。ジルアートの声が少しだけ驚きを含んでみせ、櫻はそう、と頷いた。一人でのんびり買い物をして過ごすつもりだったと話す。
……まるで。
まるでそこいらの女性のようだ。
―――でも、と思う心も同時に在った。
休日にのんびり買い物に行く。このような普通の日常の中に生きてきた女性なのだとしたら、櫻は本当にただの、平凡な女性に過ぎない。
……どのような心境なのだろう。
初めてジルアートは櫻という女性を「アウラ」としてではなく見つめる。
ただ、休日に買い物に出ただけだ。きっとのんびり自由に過ごすはずだったその時が、いきなり見知らぬ世界に連れて来られたのだとしたら。
ジルアートは…眉を寄せた。
急速に、「アウラ」が実体を持った「櫻」に変わる。
傍らの青年が、いきなり立ち上がったことに櫻はびくりと反応した。
それからすぐに、痛くない程度のしっかりとした強い力で引き上げられる。
てきぱきと敷布を片付けると、ジルアートは少し急いたように行きましょう、と促した。
急な展開に櫻はついていけず、腕をとられながらも懸命に声を掛ける。
「ね、ねえ。どうしたの。行くっていったって、一体どこへ……」
ジルアートは振り向いて、すぅっと口元に笑みを浮かべた。
「秘密です」
おそくなりました・・・