繋がれた手
涼やかな風が、頬に触れるように吹いた。
見渡す限りに広がる、この緑の一面をどう言い表したらいいのだろう。緑の地平線の向こうには、青い青い、空が見える。いつも見ていた空と、この空の色が違うのは何故だろう。とても濃い青だ。まるで、宇宙に惹かれていくような、そんな青。
両手を広げて大きく息を吸い込むと、ふと背後を振り返る。すると、すぐに合う視線に、櫻の胸がどくりと鳴った。
―――そんな優しい目で、見ないで。
この空より深い青の瞳を持った青年は、笑みを浮かべたまま櫻のすぐ後ろで足を止めた。広げたままの両腕を慌てて戻そうとすると、青年の腕がそっとそれを制した。なんだかそのまま視線を合わせづらく、視線は眼前に広がる緑の平原に向けられたまま。
この壮大な景色をどう表したらいいのだろう、と櫻はこの世界に来て何度目かの光景に涙さえ浮かべたくなる。そんな心持ちだった。
強く吹く風は心の中まで洗っていくように二人を通り抜けていく。足元に生える草は、青く生い茂っていてその背は低くない。踝が埋まるほどの高さを持った草が、一面を覆っている。続く平原の、あの地平線に見える緑の向こうはもしかしたらこの島の縁に当たるのかも知れないけれど、ここに立っている限りはどこまでも続くように、果てなく続く緑の原にしか見えなかった。
「ほら、見て」
腕を支えたまま、ジルアートは端麗な顔を櫻の顔の傍らに近づけた。風に靡く赤い髪が鮮やかで、視線がそこに釘付けになる。ふと、その視線に気づいた青年の瞳がこちらを向いて、ああ地球の色だと櫻は思った。その瞳が穏やかに細められたのに気がつくと、一瞬にして頬が紅潮するのを感じる。…何してるの、と自分の動悸を叱りるけるように目を伏せる。
ジルアートは何も言わずに再び櫻の視線を促した。長く細い腕は、櫻の腕をそのまま遠くへ伸ばすように。
「あそこに見えるのがあなたのいらっしゃる神殿です」
今、二人は神殿の向こう側に見えていた緑の平原に赴いていた。片方は地理を頭で思い浮かべて、クロワッサンのような形状でいう、片側の先端付近だろうと何となく思い浮かべて納得している。円を描いているその中心の近くに神殿はあるらしいことはわかっていた。神殿からそう遠くないところに見えるのだ。向こう側の青い原が。
そこにいざ立ってみると、神殿と呼ばれていたものは緑と段々の陸地の高地にある、白くて小さな建物でしかない。あの巨大で迷路のような神殿があんなに小さく見えることに、櫻は思わず笑ってしまう。何て広さなのだろう。ここも島のはずなのに。
おかしそうに笑った傍らの表情に、青年もほっと口元を緩めた。
「小さいね」
「そうでしょう。この島はとても大きいですから」
とはいえ、この地までわざわざデュークで来たわけではない。歩きたい、と申し出たのは櫻の方だ。この地を巡るのに、あの巨大な生物からはイマイチ実感がわかないだろうと思ったからだ。
こうして自らの足で立ち、風を感じてこそ意味があった。まあ、そもそもとにかく外に出たかったのもあるのだが。
ジルアートは特に異議を唱えることなく櫻をここへ連れてきた。結構な距離を歩いたが、どこもかしこも草で覆われているので足元はそんなに不自由しない。柔らかな草がクッション代わりとなって櫻の足を守ってくれたし、青年はその速度を間違えることもしなかった。
ところどころ、千切れ雲が身近に浮かんでは風に流されていく。この地に二人で立っている今も、小さな雲が二人を通り過ぎていく。雲に全身で触れた自分が、櫻は少し不思議だった。
纏った白い一衣は晴天のこの陽気にしては、思ったより厚い布地だと思っていたが、今は納得だ。島がどのぐらい高所にあるのかわからないが、晴れていてもそう気温は高くない。何より吹きすさぶ風に体温が奪われがちだ。
…だから、だ。と櫻は口元を懸命に一文字に縛って頬の紅潮に耐えていた。
背中に当たる彼の身体に、ぬくもりを感じるなんて。
「……人がいないね」
ここまで歩いて誰にも会わなかったのは変だ。そう思ったのだが、当然のようにジルアートは頷いた。
「この島自体が少し特別なんです。アウラのおわす島ですから」
神官ならいざ知らず、一般人はこの島にいないらしい。
あ、そう、と微かに落胆するが、巧妙に隠して見せる。ただここでも普通に人が生きているのを見たかっただけだ。他意はない。
ないが…この地でもうちょこっと人工的なものも見てみたかったかもしれない。なんだか自然ばっかりだ。綺麗だけど。
その意思が伝わったわけはないはずだが、ジルアートは少しだけ苦笑した。
「もっと明るいにぎやかな方が良かったですか」
「ううん、ここもきれい」
「でも、もっと見てみたかったのでしょう?店や人で賑わう町のような場所を」
「……なんで?」
どうしてわかったのだろう。そんなこと、一言も言っていないし上手く隠したつもりなのに。
すると悪戯したような笑みを浮かべて青年は答えた。
「顔に書いてありますよ、私のアウラ」
そう笑われて頬に指が触れる。と、くすくすと笑う青年に、どうしようもなく頬が熱くなる。
この熱を止めて!と両手で頬を覆うと、いたたまれなさに目を瞑る。年下の若い彼に、どうして読まれてしまうのか。年上としてそれは大いにまずい気がする。まずい。うん、まずい。いや何がまずいってやっぱりほら、私の沽券に関わるし。
そう思ってぷいと景色に顔を向けた。傍らの青年を見つめると、いろいろまずものまで引き出されてしまうような気がする。
歩き疲れたでしょう、とジルアートは持っていた敷布を敷いた。二人にしては随分巨大な敷布で、思わず櫻は会社の花見を思い出した。大の大人が何人か寝転がれるに違いない。
敷布が重い素材なのか、風で飛ぶこともなさそうだ。そう思って促されるままその上に乗る。
「……?」
何か、変だ。櫻は空を見上げた。
風が止んでいる。あんなに強く吹いていた風が。
続いて敷布に腰を下ろした青年に、櫻はそのことを告げる。
ああ、と当然のように頷いて。
「この敷布の上は…何といったらいいのかな…風や雨を凌いでくれるのです」
また不可思議な。魔法でもあるんじゃないの、と思いかけて昨日の神官を思い出す。巨大な鳥を一掃したアレが何なのかは知らないが、またそういう類のものでもあるのだろうか。
どちらにしても、この状況そのもの、むしろ自分がその不可思議の代表だと櫻は思い、小さなことは拘らないようにした。一々首を傾げていては、自分が疲れるだけだから、である。
長距離を歩いたのは、思ったより足に来ていたのか。それとも最近の運動不足が原因か、櫻の足は、休んだ途端疲労を訴える。思わずその敷布に寝転がると、視界一面に青い空が広がっていた。
―――… ああ、と声が漏れる。
この世界はとてつもなく、高い。
太陽に近く、島々が無数に浮き、そうして今、見上げるだけで浮遊したような気持ちにさせる。
何もかもが、地についていた自分の「箱庭」に比べて、ここは何て高いのだろう。
寝転んだ地は、確かに島でも地であるのに、そのずっと下方にはきっと海が広がっている。ここも、ずっとずっと、高い。
櫻は、その高さに眩暈すら覚えて目を閉じた。
「……高いのね」
ぽつり、と落とした言葉がジルアートを振り向かせた。衣擦れの音にそれを感じながら、けれど櫻は瞳を閉じたままだ。
感じていたかった。この高さを。空を。全て。
「ここは私がいたところより、ずっとずっと、高い」
そうなのですか、とジルアートの静かな声が降る。うん、と頷いて、そのまま意識を沈ませる。
沈黙は、痛くなかった。微かに視界を広げると、両手を背後に置いて、背を傾けて空を見上げる姿がある。ここからその表情を読み取ることはできないが、代わりに初めてまじまじと彼を見つめることができた。昨晩のアレは、まじまじと見つめたのは顔だけだ。
…華奢に見えるな、と櫻は思う。伸ばされた腕は細く、背中も剣を持つにはやはり華奢な気がした。剣を持ったことはないから、どのぐらい重いのかはわからない。だが、すっと伸びた背筋は凛々しい、とも思う。
ぼう、っとその姿を見つめて、視界に入る赤い色に目をやった。いつもいつも、視界に入る朱色の、色。染めたようなどぎつい色ではなく、透き通るような薄い朱色。癖一つなく、毛の一本一本が瑞々しいような気さえする。女の髪より綺麗なんじゃ、とその色に見とれて、思わず口に出す。
「かみ」
「え?」
振り返る青年に合わせて、その髪が揺れた。目の前で揺れるそれに、そうっと触れる。さら、と指の間を流れる髪は、やはり美しかった。
「髪。きれいね」
「そうでしょうか」
「とってもきれい」
「…この髪の色をした人間は、少ないのです。とても」
「…そうなの?」
「はい。私の姉は金の色をしていますし」
そういえば、ヴィスドールもパメニも茶色の髪だ。見かける神官や侍女たちは、似たり寄ったり。櫻は染めて明るい茶色だが、まあ似たような色だ。金の髪も黒の髪もいるが、確かに神殿には赤い髪はいない。ジルアートだけだ。
彼の姉が金の髪とは少々以外だった。色素が濃いものほど子に引き継がれるというけれど。
見越したのか、予想できるものだったのか、彼は穏やかな表情のまま、口を開く。
「私の母は、赤い髪の色をしていたのです。父は金の髪。姉の母もそうですから」
だから余計、目立ちます。と、事実だけ青年は述べる。
…ごめんなさい、と言うべきだろうか。彼の奥に気安く触れようとしてしまったような気がして、櫻は困惑した。
その表情を見て、ああ、と再び青年は微笑する。
「慣れていますから。そもそも、アウラは私の髪を褒めてくださったのでしょう?」
「…うん、だって」
家庭の事情はあるのだろうが、それでもこの髪を厭わないで欲しい、と櫻は思う。
「綺麗だもの」
夕陽の色をしている。燃えるような、陽に沈む直前の赤。
そう告げて笑んで見せると、ジルアートは幼さを見せる不器用な笑顔で応じて見せた。