神の領域2
ふわふわと、たゆたうような浮遊感。それはまるで、羊水の中に閉じ込められているような心地よさだった。
…羊水の中ってどんなだっけ、と意識が浮上した瞬間、漂っていたモノは急速に形を成した。
すなわち、櫻は目を覚ました。
「……どこ、ここ」
櫻は立っていた。自分の足で。
辺りは……歯車がぎしぎしと動いている音がする。そして、幾つもの歯車の回る音。
狭くて、薄暗い。あの光はどこへ行ったのか、この狭い場所はまるで時計塔の機関室のようだ。
けれど櫻は嘆息しただけに留まった。あの騒音から開放された今、とりあえず心は落ち着いている。
あとの問題は、こんなところに呼び出したのであろうあの男を見つけるだけだ。
…と、耳元に香る懐かしい匂い。
「何を探しているのだろう」
冷たい掌が櫻の肩を支える。
振り向こうとした目と鼻の先には、いつか見た青い瞳があった。
「ち、近っ。近いから、離れてよ」
「……ああ。望みの通りに」
ゆらり、と男は手の届くぎりぎりの距離を取る。
その瞳は動じることもなく、静かなままだ。
電車の中で見た、あのままの姿。
「あなた、誰なの」
「私には名がない」
「……どういう人なの」
「私は人ではないから」
「じゃあ、」
「私は、箱庭の管理者。この機械仕掛けの箱庭の管理を任された者」
櫻は眉を寄せてたずねた。
後ろで、ぎぎぃ、ぎぃ、と大きな歯車が回る音がする。
「……箱庭?」
男はこくりと頷いた。
「箱庭は箱庭だ。君の生まれた場所もまた、一つの箱庭だった」
ピン、と来る。
「箱庭って、私の居た世界のこと?」
あっさりと、男は頷いた。
そして緩く、首を振りながら告げる。
「あそこもそうだった。けれど今はもう、ない」
「…………ない?帰れないの間違いでしょ?」
「ないんだ」
息が、詰まる。
「………は?」
「箱庭は幾つもある実験体だ。君の居た箱庭も、グランギニョルも同じように。そうして君の居た箱庭はもうない」
「なん、」
「消却命令が下された」
「……は、」
誰に。
どうして。
何を……?
何がもう、ないって……?
心を見透かしたように、男は続ける。
「死んだのではない。苦しんでもいない。ただ、あの箱庭は消却された。それだけだ」
それよりも、と男は一歩、近づいた。
微かに触れる感触に、櫻は自身が震えていることに気づく。
「時間がないんだ。もう、この場を保つことは難しい。あまりここに長く君を留めておけない。だから、聞いてほしい」
櫻は、男を見上げる。
感情のない、美しい人形のようなそれを。
「君以外の誰もグランギニョルの管理者と意思を交わすことは出来ない。君は、”アウラ”だからできる」
「……何なの、その、アウラアウラって……人を何だと……っ」
男は予想外に強い力で櫻の肩を持った。
「聞いてほしい。もう時間がないんだ。グランギニョルの民には終末についての知識を持っている。それを、正しく知って欲しい。彼らの言う終末は、私の言う消却命令と同義だ。……意味は、わかるね」
終末?
消却命令?
何それ。
何の冗談。
脳内がぐらぐらと揺れているような錯覚に陥る。
……気持ちが悪い。
何も、考えられない。
あまりの眩暈に、目を閉じる。
ぐらぐらと。
ああ、揺れる。揺れている。
揺れているのは、この世界?
「グランギニョルは消却命令が出る寸前だ。消却命令の出現条件は6つ。既に5つは出現している。だからあなたは最後のアウラなんだ。君は私のグランギニョルへの”神託”だ。どうか、聞いて」
最後の一つ。
その扉を開けないように。
「……どうか。アウラ」
足元が崩れ落ちるような感覚に、櫻は悲鳴を上げた。