アウラ ~神託者~8
つい、と男の細い指が宙を舞う。
「世界の原理は簡単だ。機械仕掛けの歯車だと思えばいい。幾つもそれが存在する大きな時計を想像してみろ。その時計の管理者が――お前を呼び出した張本人だと言っていい。ここに運ばれてきた箱舟で、何かに遭わなかったか」
二つの瞳がこちらを向く。
より近距離でまじまじと見た彼の目は――本当に、血の色のよう。
櫻は視線を逸らさずに答えた。箱舟とは、電車のことだろうか。
はっきりと覚えている、あの金色の髪をした人形のような男のことだろう。
「気がついたら、電車…箱舟、の中には誰もいなかった筈なの。でも、突然男の人が居て」
「どのような」
「金色の髪に、すっごいきれいな顔をした男の人。目は青かった」
あの時は朧げな、霞のような光景に頭が麻痺していたとしか考えられない。
思えばなぜ、動揺の一つもしなかったのだろう。…櫻の心に、疑問が落ちた。
心得ていたのか、ヴィスドールはただ頷く。
「今までのアウラは、皆異なったものに遭遇している。お前の場合はその男の姿だったのだろうな」
「……皆、違うの」
「違うな。女の姿であったり、動物の姿をとっていたこともあるようだ。思念体であるとみるのが妥当だろう。それが、グランギニョルで奉られている”神”にあたる。とはいえ、我等が見たわけではないのだが…な」
―― 神。
櫻ははじかれたように息を呑んだ。
「私は、グランギニョルの神託だって言ってた」
男は怪訝な顔をした。
「お前はアウラだろう?”神託者”だ。神の意思を告げる者。”神託”じゃない。神託とは神の意思を言うのだからな」
呆れたように覚えておけ、と告げる。
わかったように頷きながらも、櫻は内心首を傾げた。
『君はグランギニョルの神託だから』
響いた声は、今も意味に残っている。
……確かに”神託”と、告げたのに。
櫻はその問題を忘れないよう、胸に留めておくことにした。
今、聞きたいことは他にある。
「ねえ、どうしてよそからのアウラが必要なの」
回答は、ひどくあっさりとしたものだった。
「神の神託を我等では聞き届けることができない。なぜだかは知らぬがな。脈々と続いてきたことだ。箱舟に乗ったアウラがこの地に招かれることは」
「それって、人身御供じゃないの?自分たちの世界のことでしょ」
ヴィスドールは面白そうに口の端を上げた。
「確かにな。だが、我等が自ら招いているわけではないさ。―― アウラが崩御する度、新たなアウラが箱舟に乗って現れる。我等がしてるのは、アウラの保護だ。……まあ、そのついでにアウラとしての役割も果たしてもらうが」
櫻は胸に穴が開いたような衝撃に、言葉が出なかった。
もしかしてと思ったことはある。何度もこの世界で寝起きして、醒めない夢のようなこの世界で。
……自分はひどく、感覚が麻痺しているような気がするのだ。
それはどこか、夢に似ていて。
……けれど、目の前の男はそれを崩そうとしているのだ。
「櫻」
耳慣れぬ音に、アウラとなった彼女は神官へと向きなおる。
ヴィスドールの目は、静かに凪いだ水面のような静けさを湛えていた。
……言わないで、と胸のどこかが縋る。
「結論から言おう。お前は二度と、戻ることはできない。残された道は”アウラ”であること。それだけだ」
…………どこかで、気づいていた。
この夢のような現在に終わりは来ないのではないか、と。
……けれど、なぜだろう。
不思議と、そこまでの悲しみは溢れてこない。
ヴィスドールは更に続けた。
「”アウラ”であることはこの世界で拒否できない。それだけは、無理だ」
「……しないわよ、そんなこと」
そんな、自らの居場所を失うようなことは。
そう続けようとして、ぐっと堪えた。
……それは、どこか惨めな気分にさせる。
自分は”被害者”なのに、当然のように義務を与えられて。
生きていくためには従わざるを得ないではないか。
こんな、こんな。
「そうだな。お前は聡い」
ヴィスドールは、穏やかに微笑んだ。
その表情は、いつもの狐笑いではなく。櫻はぽかんとそれを見つめた。
が、次の瞬間にはおなじみの狐面に戻っている。
かすかに太陽が西へ傾き始めたらしい。夕陽の色合いを滲ませ始めたばかりの空が、窓から見えた。
ヴィスドールが長いカーテンを開け、窓を細く開ける。と、涼やかな風が二人を覆った。
櫻も空を見上げ、ふと気づく。
ここのところ、空ばかり眺めているような気がする。下を見れば壮観な景色ではあるが、下を見れば見るほどこの島が浮いていることが信じられないのだ。今も思い出しただけで、落ちてしまうのではないかとさえ思う。
ふと、思ったことを口にしてみた。
「ねえ。何でグランギニョルの島は浮いているの」
「……は?」
訝しげな目線。
それにもめげず、櫻は続ける。
「だって落ちたら怖いでしょ。あ、いや落ちたら死んじゃうけど。島が何で浮くのかなと思って」
「……落ちた島というのは聞いたことがない。創世の頃から浮いていたと考えた方が早い」
「あ、そう」
「それよりアウラ。今度はお前の特殊性について話して置こう」
今日の講義はそこで終わりだ、とヴィスドール。
日が翳ってきたのに気づいたせいだろう。
この男の講義…―これはいったい何の授業なのか―は、テンポは遅いが要領が良い。ポイントをついてくる。
「特殊性?」
「そうだ。お前は今までのアウラと同じでは困る。いや……ないはずだ、と言った方が正しいか」
ヴィスドールは窓からようやく櫻に視線を戻した。
傾き始めた日が、男の髪を照らす。
茶色の髪が、金を帯びて見え、櫻はかすかに目を細めた。
「前代のアウラの最後の神託で、世界の終焉が迫っていると出た。……お前は、最後のアウラになる」
狐男こと、ヴィスドール。
目立ちすぎですかね 笑。