アウラ ~神託者~7
部屋の修繕と、各担当者の建て直し。それらを行なわなければならないため、授業は後日に伸ばされるはずだった。
しかし、けろりとした教師――先の男と、授業の内容を考えれば、櫻はすぐにでも始めたかった。先ほどの怪鳥の騒ぎも、きっと何か関係があるに違いない。あんなにも明確に、櫻を狙ってきたのだから。
櫻の要望を、教師であるパメニの兄こと、神官ヴィスドールはあっさりと受け入れた。
そうして今、授業は始まるに至るわけだが。
「…………」
ヴィスドールの視線は櫻の元にある。が、当の本人はというと。
「…………」
睨むような視線が痛い。重い。
ヴィスドールに目をやれば、視界に入ってくる赤い色。
「………………ジルアート、あの、」
「…………………」
じぃ。
「…………………………………」
「あ、あの」
はあ、とこれみよがしな溜め息を吐くと、神官は眉を顰めて背後の青年を睨みつけた。
じぃぃぃっと無言の圧力をかけている青年は、それでも顔色一つ変えずに静かに佇んでいるままだ。
実に心臓に悪い、もとい、緊張する。
真っ直ぐな目が微動だにしないと、それは軽く拷問だった。
「………出て行け。神託者殿の気が散る」
「俺が見ているのはお前だけだ。アウラの邪魔になることはしない」
いやだから、と声を掛けそうになって留まると、面倒くさそうな狐目が彼女に視線を向けた。じとっとした視線には含意があった。櫻はピンと来て、すぐに眉を寄せた。
……なーんであの目の意味がわかっちゃうかな。年のせい?
そう思いつつ、苦笑しながらジルアートに向き直る。言われずとも、ジルアートの態度に集中できないのは、むしろ自分の方だからだ。
「ジルアート。そんなに見張っていなくても大丈夫だから。あの、どこかで休んでて―――」
「そうはいきません。アウラ、忘れないでください。こいつが何をやらかしたのかを……っ!」
思い出しても腹が立つのか、ジルアートは思わず手を剣に伸ばした。
どこまで真面目なのか。いや、真面目というより、キスシーンに激昂しているなら初心なのか?
考えつつも物騒な装いにぎょっとした櫻とは裏腹に、ヴィスドールはただただ、嘆息した。話が進まないではないか。こういう問答は彼の好むところではない。
「兵を呼ぶか」
「へい…って」
へい。ヘイ?
…兵?!
「邪魔だ」
「そ、それはその……」
否定できない自分が悲しい。
「やれるものならやってみろ。俺を動かせる兵などいるものか!」
それはどういう意味だろう。…そういえば、さっきから「俺」って言っているのはヴィスドールの前だからだろうか。櫻の前で顔を付き合わせた場面が場面だったから、二人のことは何も知らない。
櫻は問いそうになって……やめた。聞きたいことは、この狐男に聞けばいい。
この男なら話は早い。櫻は直感していた。
櫻の対する扱いを見ればわかる。話がし易いことも、間違いない。気を抜けるかどうかは別として。
………悔しいが、若干櫻の気性に似ていた。
それはともかく、と仕方なく、櫻は強めの行動に出ることにした。
「ジルアート。本当に集中できないから。せめて部屋の外に出ていて」
「しかし……っ」
「今までだってあなたいなかったでしょ。大丈夫よ別に」
キスぐらいじゃ死なないしね。と、内心で続けながら衝撃を受けて二の句の告げない青年に笑いかけた。
「………アウラ、怒って……」
「怒ってないよ。怒る権利なんて、ないでしょ?私に。でも事実だもの。あなたがいなくても、ちゃんと生きてるから大丈夫」
……突き放したのは、わかっていた。
ここに居られると困るだけだったら、こんな言い方はしない。そう。知っている。だから少しだけ、と内心で舌を出した。ジルアートが櫻を迎えに来たことが仕事のうちであることぐらいは櫻にもわかっている。だからこそ、青年が思うより優しく接してくれていることには本当に感謝をしてはいる。
……してはいるけれど。
櫻は、確かに目の前の赤い髪の青年に会いたかった。ずっと。
彼にそんな義務はないかもしれない。それはそうだとも思う。……けれど、なら今だって、そんな権利はないのだ。
そして彼女にとっては、自分にだって意見はあるぞ、という脅しでもあった。
ジルアートの反応を待たずに、天井から伸びる呼び鈴を引く。すぐに女官が入出してくる。
パメニが大事をとって休んでいるのも幸いした。ジルアートは無関係なただの女官に無体はしまい。
「ジルアートが部屋の外で待機してくれるそうなの。よろしくね」
「畏まりました」
さ、と無表情な女官に促されれば、さすがに青年も否と言うことはできないようだった。見苦しい真似はしまい、という予想は的中した。それに、少しだけ感情がちりちりと焼けるような感覚もある。けれど櫻は、理解のあるアウラのまま、退室を促すだけに留めた。
心配そうにこちらを振り返りつつ去っていくジルアートに、微笑みながら手を振ってやる。それぐらいにはまだ、優しくしてあげたい気持ちがあった。
………が、隣で同じようにひらひらと手を振る男が居た。
しかしジルアートのこめかみがひくつく様子を見る前に―――扉が閉まる。
辺りは急に、静まり返る。
さて、と冷淡な声が頭上から降る。
ヴィスドールは長身を窓辺に寄りかからせたまま、こちらを見下ろしていた。
「では始めようか。神託者殿」
「神託者っていうか、櫻っていう名前があるんだけどね」
「気にしない。まず……そうだな」
お前が気にしなくても気にするんだよ私がっ!というのは後の楽しみに取っておく。
思いもかけない質問をされたからだ。
「お前について問おう。歳は」
「26」
「家族構成は」
「両親と弟…?」
「なぜ疑問形で返す。ではお前の世界での職業は」
「今はない。大学院に入ってたから。その前は教師」
「ほう。教師とは面妖な……まあいい。では次に――」
「何なの、これ。こんなこと聞いてどうするの」
苛つきが声に表れたのか、ヴィスドールは言葉を止めた。
けれど、さも当然のように、櫻に返す。
「では、私はお前に何を問える?こちらが提供する……違うな、我等がお前に知ってもらわねばならない情報は多い。だが、それでは不公平だろう」
「ふ、不公平って」
「お前は不自然すぎる」
「は?」
顔を上げようとして、大きな掌に頭を押さえつけられる。………何なの、これ。
すると静かな声が、吐息のように聞こえてきた。
「未知の場所に突然連れてこられたというのに、文句一つ、罵倒一つないとは不自然だろう。少なくとも私は、お前にそれだけの無体を強いていることを自覚している……が、」
お前は自覚しているのか?
そう、聞こえて。
言ったろう、と言葉が続いた。
言った……何を?
再び顔を上げると、狐のような目にかち合った。
その目は、ゆうるりと細まって。
”泣かないのか”
「――― あ」
初めて声を聞いた、あの時。
「アウラ。お前は被害者だ。泣いていい」
……穏やかな声で、そう、告げるから。
髪を撫でる掌が、ただただ、優しいものだと気づいたから。
私はそこで、初めて自分が泣きたくて仕方ないことに気がついた。
……ちくしょう。責任、とってよね。
返事は、暖かな腕だった。