アウラ ~神託者~6
強い風が吹いた。
レースの破れたカーテンの隙間から入った風が、部屋の中に佇む男の頬をなでる。
乳白色の頬。ほっそりとした眦は、まるで狐のよう。
櫻が思ったことなど、その程度のものだ。他に、何も考えられない。考えられなかった。
だからだろうか、すぐ間近まで近づいた男にすぐ反応できなかったのは。
「無事か。神託者殿」
差し出された掌。
それはまるで、あの時のようで。
『どうぞ』
静かに笑んだ、青年の姿。
それが、一瞬にして、強烈な目の前の男の姿に塗り替えられる。
櫻は手を伸ばそうとして、気づく。腕が上がらないのだ。パメニが覆いかぶさったままで、腕は彼女の体の下にある。
一瞬にして、焦る。すぐに手を返さなければいけないような、そんな気がしたからだ。
男はすぐに気づいて、パメニを櫻から引き剥がした。と、そのまま床へ転がした。
それを気にも止めずに掌を櫻の頬へと伸ばす。
「泣かないのか」
「え?」
思わず視線が上がり、男のそれとぶつかった。
ぶつかった、と気づくほどの衝撃があった。男の赤い、瞳には。
淡々と、その指先でゆっくりと頬から顎までをなぞりあげると、男はその首を傾けた。
白い首筋がなまめかしい、と食い入るように見つめていると――……男の瞳がすぐそばにあった。
「……ん……っ」
強く、唇が押し付けられる。熱い舌が、ねじ込むように唇から押し入ってくる。
思わず首を傾けて逃げようとすると、冷たい腕が櫻の首を支えた。さらに深く口付けられる。
逃げ切れない。
ゆっくりと、舌が、官能的なまでに動く。何かを想起させるような、舌の抽出に身体が震える。それが快楽であることを、櫻は知っていた。
思わず男の長衣に指が縋る。
しばらくそれが繰り返された後、男はかすかに顔を離して櫻の瞳を見つめた。
その、一瞬の交差。
――赤い瞳に見つめられると、動けなくなる。
舌を出したまま、男は再び櫻の口内に侵入する。
歯をなぞり、上あごを舌が撫でた。その感覚に、思わず仰け反って声が出る。
「……んん…っ………ん、んっ……」
……水音が、辺りに響く。
櫻の全身の力が抜けた、その時。
蹴破るように扉が開いた。
……金具が飛び散る音がする。壊れたらしい。
「アウラ!!ご無事ですか?!」
遠くで人々の声がする。誰かを止めるような焦った声が、幾つも近づいてくる。
それより先ほどの声は早く、軽い足音を立て―――あっという間にこの部屋へ入ってきた。
その、朱色の、髪。
ジルアートは駆け込んできた直後、櫻を見つけて………硬直した。
ピキ、とその手の筋が浮き出て剣が上がった。
「ヴィス!!おま、おまえは…っ。アウラから離れろ!!」
ふん、と驚くどころか動揺もしない男は、ジルアートの剣が一閃する直前にひらりと櫻の前から離れる。
するとスタスタとパメニの元へ近づくと、額に指をあてて呟いた。
「起きろ」
するとはっとしたようにパメニは目を開いた。きょろきょろと辺りを見回すと、さあっと顔が青ざめる。
「アウラさま!」
転がるようにかけこんできたパメニは、櫻を強く抱きしめた。
「だ、だいじょうぶですか…っ。お、お怪我は?!」
震えるパメニの背を、櫻はじっと見つめた。自分より広い彼女の背。
華奢なそれが、自分を思って震えている。
迷うことなく、櫻はその背を強く抱きしめた。
「ありがと。パメニ。私は平気。パメニが庇ってくれたでしょ?」
「ほ、本当に?お怪我はありませんかっ」
「うん。ないよ」
よかったぁとへたり込む彼女を一瞥すると、男は再び櫻の元へ近づいた。
が、はっと意識を取り戻した青年がその道を塞ぐように立った。
「どけ、ジルアート」
ジルアート?櫻は首をかしげる。
青年の、名前だろうか。
当のジルアートは顔を真っ赤にして男に対峙している。
剣を握る手が哀れなほど強く握り締められているのが見える。
「お、ま、えは……っ!アウラに何を……っ」
面倒くさそうに男は腰に手をやった。どことなく気だるそうだ。
長身のせいか、足も長いな、と櫻はぼんやり思う。
それより青年――ジルアート、のことだ。
剣を男に向けたジルアートに、男は皮肉を淡々と告げた。
「お前に何かを言われる筋合いはないな。なぜアウラの傍にいない」
「……な、」
「守ることがお前に命だろう。……何をしていた」
静かな気迫に、櫻はジルアートの噛み締められた唇を見つめた。
あんなに穏やかな笑みを浮かべていた青年が。
憤っている。
「――………じ、る、あーと?」
青年は一瞬停止した直後、勢いよく振り返った。
慌てて剣を収めると、櫻の前に膝をつく。
ざり、と床のガラスの破片の音がしたが、彼は気にも留めずに言い募った。
「アウラ!ご無事ですか……っ、どこか、」
わたわたとしている青年は、ひどく珍しかった。
あの一度しか会っていないというのに。櫻は苦笑した。
「あー……うん?平気。別に」
沈黙の間チラリと男を見上げたのは青年には内緒だ。
男は口の端を上げて返してきたが、とりあえずはジルアートだ。
「ジルアート」
「はい?」
かすかに首をかしげた青年に、櫻は笑った。
この青い瞳を見たのは、久方ぶりだ。
本当に。
「ジルアート」
「はい」
「それは、名前?」
「え?」
「あなたの、名前なの?」
青年は、息を止めた。
そして、吐き出すように、告げた。
小さく。…小さく。
「………はい。私の、名です」
なぜだか、嬉しかった。
名乗りさえされていない、一度しか会っていない、この青年。
けれど会った途端に安心感が櫻を襲う。
そして、ようやく呼べるのだ。彼の名を。
「そっか」
櫻は、笑った。
グランギニョルへ来て、初めて心から。
それを見た青年は、少しだけ目を見開いて………伏せた。
そして静かに、右手を左の胸に押し当てる。
そうして再び、彼女に視線を向けた。
「ジルアートと、申します。私の、…アウラ」
花が開くように、青年はそっと、艶やかに、微笑んだ。
ヴィスがでしゃばりすぎて、どうなることかと思いました 笑。
ジル、ちょっとは盛り返せているといいのですが…