8.あなたに会いたい
「あぁ……。君の身体って、こんなに柔らかかったんだね……。初めて会った時は骨と皮だけのようだったのに、今は抱き心地抜群だ。あぁ、最高だ……もっと早く君を抱きしめれば良かったね。そうしたら、君がこんな風に不安に感じる事は無かったのに……。嫉妬している君も良いけれど……ね?」
その吐息混じりの囁きに、アーシェルの身体がぞわりと大きく粟立った。
(え……。こ……この人、こんなに気持ち悪い人でした……? と、とにかく早く離れないと、嫌悪感に負けてこの場で盛大に吐血しそうです……っ)
エイリックの腕から懸命に逃れようとしても、アーシェルの肩と腰に絡みついた腕はビクともしない。
腰にある手が妖しく身体の線を這っていて、アーシェルは身体をぞわぞわさせながら、不快感で一気に泣きそうになった。
――その時、自分の身体がグイッと引っ張られ、エイリックとは違う何かにふわりと包み込まれた。
「嫌がっている淑女を無理矢理抱擁するとは、紳士の風上にも置けないな」
聞き慣れた、低音の落ち着いた声。
レヴィンハルトがエイリックを引き剥がし、アーシェルを自分の腕の中に隠してくれたのだ。
その安らぎを感じさせる温かさに、アーシェルは知らずホッと息をつく。
「ローラン先生……」
安堵感で目を潤ませたアーシェルに向かって、レヴィンハルトは安心させるように優しく微笑んだ。
引き剥がされたエイリックは、怒り顔でレヴィンハルトに向かって声を荒げる。
「ちょ――何ですか、ローラン先生。部外者は邪魔をしないで下さい。そして早く彼女を返して下さい。彼女は僕の婚約者ですよ」
「彼女は心から嫌がっていたぞ。可哀想に、こんなにも震えている。君の婚約者であったとしても、生徒を守るのは先生の役目でもあるからな。今、彼女は君に対し酷く怯えている。話し合いなら後日にした方がいい」
レヴィンハルトの腕の中で小刻みに身体を震わせているアーシェルを見て、エイリックはばつが悪そうに顔を背けた。
「……アーシェル、僕は『婚約解消』なんて絶対にしないよ。僕の両親もそれを決して許さないからね。君の両親だってそうだろう。君は君の愛する僕と結婚し、僕を沢山幸せにするんだ。分かったね?」
エイリックは目が笑っていない微笑みをアーシェルに向けると、足早にその場から去っていった。
それを見て、慌ててジェニーも彼の後を追っていく。
二人の姿が見えなくなると、アーシェルは長い溜め息をついた。
「……ありがとうございます、ローラン先生……。助かりました……」
「放課後に話をすると言っていたからな。心配で様子を見に来たが、正解だったようだ」
レヴィンハルトはアーシェルの身体をそっと離すと、労わるように彼女の頭を優しく撫でた。
「………っ」
その撫で方は、昔、セルジュがアーシェルにしてくれた、ぎこちないそれと似ていて。
思わず、彼女の瞳から涙がポロポロと溢れ出す。
アーシェルが泣いている事に気付いたレヴィンハルトは、胸ポケットからハンカチを取り出し涙を拭おうとしたが、大きな眼鏡が邪魔をして拭けない。
「眼鏡、取るぞ」
レヴィンハルトは短くそう言い、アーシェルの眼鏡を外すと、彼女が徐ろに顔を上げた。
「っ!?」
その涙で潤んだ碧色の瞳は、陽の光を受け七色に煌めいていて。
「き……み……。その、目は――」
大きく両目を見開くレヴィンハルトに、アーシェルは不意にくしゃりと顔を歪めて。
「セル……っ。会いたい……あなたに会いたい……っ」
そう言い、本格的に泣き始めたアーシェルに、レヴィンハルトは再び目を瞠り、すぐに辛そうに顔を顰める。
彼女の小さな手を取って引っ張り、中庭の誰にも見えない死角に来ると、彼女の身体を深く抱きしめ、その泣き顔を隠した。
「君は……やはり“彼”の――」
レヴィンハルトの呟きは、彼の胸の中で泣きじゃくるアーシェルの声に消され、彼女の耳に入る事はなかったのだった――