6.やりたい事をやりましょう
(あの子と別れた後、変わらず苛められたり、両親や屋敷の人達に冷たくされ続けて、いつの間にかあの子の事を忘れてしまっていました……。あの子、元気にしているでしょうか……)
セルジュの無邪気な笑顔を思い出していたアーシェルは、ハッと顔を上げた。
(そうです! やりたい事が見つかりました! あの子に――セルに会いに行きましょう! そして寿命が来るまで、セルが暮らす隣国で過ごすんです。ここには何の未練もありませんし。辛い思い出ばかりですし……)
アーシェルは握り拳を固め、大きく頷く。
(そうと決まれば善は急げです! 今後の為に、全てを清算していかないとですね。まずは退園の手続きを――あ、その前にエイリック様と『婚約解消』をしないと……。彼はパリッシュさんの事が好きみたいですから、すんなりと解消を受け入れてくれるでしょう。両親が何を言ったって知るもんですか。どうせ私はもうすぐこの世からいなくなるんです。怖いものなんて……もう何も無いんですから……)
エイリックとジェニーの仲睦まじい姿を思い出すと、いつも胸が苦しくなって堪らなかったのに、今はチクリと少し痛むくらいで、他は何ともない。
きっとそれは、自分と同じ瞳を持つ、大切な男の子――セルジュの事を思い出したからだろう。
アーシェルは、記憶から蘇ってくれたセルジュに深く感謝をした。
「……レイノルズ嬢?」
レヴィンハルトの呼び掛けに、アーシェルはハッと自分の思考から抜け出した。
「あ……すみません、ローラン先生。少し考え事をしていて――」
「何か悩み事でもあるのか? 俺で良ければ聞くから、遠慮なく言ってくれ」
「先生……」
アーシェルはレヴィンハルトの優しさが胸に染み込み、泣きそうになる。
その時、突然例の発作がきてしまい、アーシェルが大きく咳き込んだ。
「っ!? 大丈夫か!?」
慌ててレヴィンハルトが、口に両手を当て咳き込み続けるアーシェルの背中をさする。
日に日に、咳き込む回数と吐血する量が増えているのだ。
そして、アーシェルの掌に付いた大量の血を、レヴィンハルトは見てしまった。
(学園では吐血しなかったのに……。このタイミングで……。ど、どうしましょう……)
「……おい……どうしたんだ、その血は!?」
「す、すみません……。よくある事ですから心配なさらず――」
「吐血がよくある事なんてあるかっ! 君の身体に一体何が起きているんだ!?」
咳が落ち着き、ハンカチで口と手を拭きながら何とか誤魔化そうとするアーシェルに、レヴィンハルトは厳しい口調で言及する。
「…………」
誤魔化せないと判断したアーシェルは、険しい顔つきのレヴィンハルトに向き合い、唇を開いた。
「お話しますから、絶対に誰にも言わないで下さいね。――実は私、余命幾許もないんです。二ヶ月持つかどうかと、お医者様に言われました。治す事はもう出来ないそうです」
「は……?」
「これは、家族にも誰にも言っていません。言っても無意味なのは分かっていますから。……私は、とっくの昔に家族や屋敷の人達に見捨てられていますから……」
「っ!?」
驚愕の表情を浮かべるレヴィンハルトに、アーシェルは苦笑を見せると話を続ける。
「だから……残り僅かな人生、好き勝手生きようとしたのですが、やりたい事が見つからなくて……。悩んでいたら、ローラン先生のある仕草を見て、大切な子の事を思い出したんです。昔、その子に会いに行く約束をしたので、この学園を辞めて、隣国のウォードリッド王国に行こうと思います。それが今、私の唯一やりたい事ですから」
「ウォードリッド王国……」
レヴィンハルトはポツリと呟くと、アーシェルに一つ尋ねた。
「その、“ある仕草”というのは何だ……? 俺は何かをしたのか? 全く覚えが無いんだが」
「先生、照れた時に鼻を人差し指で掻く癖があるでしょう? その癖、あの子もやっていたんです。それで思い出して……。やりたい事が見つかったのも先生のお蔭です。ありがとうございます」
「そんな事を俺が……。いや待て、礼を言われる筋合いは無いぞ」
ペコリと頭を下げたアーシェルに、戸惑い気味のレヴィンハルトは首を左右に振る。
「学園を辞める前に、『婚約解消』もしなきゃなんですけど……。早い方がいいので、これから行ってきますね」
「は? 君、婚約者がいたのか。相手は誰だ?」
「同じクラスの、エイリック・オルティス公爵子息です」
「オルティス公爵子息……? いや、彼はいつも編入生のパリッシュ嬢と――」
そこでハッとし、口を噤んだレヴィンハルトに、アーシェルは苦笑を見せた。
「はい、とても仲良いですよね。距離も近いですし。きっとお互いが想い合っていると思うんです。だから解消するのには丁度良いですよ。『あの子』を思い出した今、私の中で彼に何の未練もありません」
「……そうか。君がそう決めたのなら、俺は口出しはしない。だが、一つだけ言わせて貰うとしたら、親と相手の親には、『婚約解消』をする事を伝えなくていいのか? 政略の婚約なんだろう? 勝手に解消出来るのか?」
「そんなの知った事ではありません。当人同士が了承したのなら問題無いでしょう?」
軽く頬を膨らませ、開き直った口調のアーシェルに、レヴィンハルトは大きな息を吐いた。
「……希望を捨てるな。まだ死ぬと決まった訳では――」
「分かりますよ。自分の身体なんですから。死期が近い事が……。咳や吐血の回数も徐々に増えているんです。でも、死ぬ前にやりたい事が見つかって良かったです。――あの子、私の事を覚えてくれているでしょうか……。まだ小さかったし、王子様だから、忙しくて忘れちゃってるかもしれませんね……」
「王子様……?」
レヴィンハルトは、その言葉に何故か大きく反応し、真面目な表情でアーシェルの両肩を掴んだ。
「ローラン先生……?」
「レイノルズ嬢。君が会いたい人物は、もしかして――」
その時、お昼休みが終わる合図の予鈴が学園内から聞こえてきた。
「あ――予鈴ですよ、先生。先に行きますね? 『婚約解消』の事は、今日の放課後にでも伝えようと思います。先生も急いで戻って下さいね!」
「あ――」
アーシェルはペコリと頭を下げると、何か言いたげのレヴィンハルトを残し、教室へと急いだのだった。
――すんなり『婚約解消』の了解を得られると軽く考えていたアーシェルは、それを告げる事によって思わぬ事態になる事を、今の彼女は知る由もしなかった――