41.上書き
レヴィンハルトがアーシェルのいる部屋の扉を開けると、彼女はカタカタと震えながら青褪めた顔で口を両手で押さえていた。
(まさか……奴の口が触れた……?)
浮かんだ己の考えにレヴィンハルトは眉間に皺を寄せ、湧き上がるむかつきを抑えながらアーシェルの隣に座る。
そして彼女の手を掴み口からどかすと、取り出したハンカチで彼女の唇を優しく拭った。
「……っ」
止まっていた涙がまた流れ出したアーシェルを見て、レヴィンハルトは自分の想像が的中した事に奥歯を強く噛み締める。
「アーシェル」
「……は、はい……」
「君が許してくれるのなら……『上書き』してもいいか? 奴の形跡を失くしたい」
「え……?」
アーシェルがレヴィンハルトを見上げると、彼は真剣な表情で自分を見つめていた。
(『上書き』……?)
やがてその意味を理解したアーシェルは、瞬時に顔を真っ赤にさせる。
彼は冗談を言っている顔つきではない。本気だ。
それは、優しさからの言葉だろうか。
それとも――
色んな思いで頭の中がゴチャゴチャになり、この不快感と嫌悪感が消えて失くなるのならばと、アーシェルは本能で頷いていた。
「……すまない、アーシェル。俺がもう少し早く気付いて君のもとに来ていたら、こんな目に遭わせる事は無かった。奴がこの国に来るとは予想していなかったんだ。何処かで君の行き先が漏れてしまっても、奴の親が止めてくれる筈だと。まさか一人でここまで来るとは……。それに、君は王妃陛下の所にいると思っていた。幾つもの判断を誤った俺の所為だ……」
「……っ! レヴィンさんの所為じゃありません! 私が勝手に外に――」
唸るように低く言うレヴィンハルトに、アーシェルは慌てて否定の声を投げようとした時、彼の顔が近付いたと思ったら、自分の唇に彼の唇が重なっていた。
「……っ」
目の前の美麗なレヴィンハルトの顔と、唇に感じる柔らかく温かな感触に、アーシェルは思わず両目を瞑る。
分かってはいたが、エイリックの唇が少し触れた時のように、不快感と嫌悪感は全く無くて。
寧ろ――
(……嬉しい……)
そう心から思った時、アーシェルは自分の気持ちに気付いてしまった。
自分は、レヴィンハルトの事が“好き”なのだと。
……きっと、この口付けは特別な意味は無いのだろう。
自分の“負の感情”を払拭させてくれる為の、彼の優しさに満ちた口付け。
八歳も年下の子供な自分に、大人な彼が恋愛感情を持つ筈が無い――
レヴィンハルトの顔がゆっくりと離れる。彼の表情は、困ったような、照れたような、複雑な色を浮かべていた。
「……すまない、アーシェル。他にもっとやり方があったな……。君の事になると、冷静な思考が出来なくなる……。今聞いても遅いが……嫌だったか?」
「……い、いえっ! 全然、全然ですっ!」
アーシェルは慌てて両手をブンブンと左右に振る。
レヴィンハルトはほっとしたように表情を和らげた。
「……レヴィンさん」
「ん……?」
「ありがとう……ございます……」
「……いや」
短いその一言には照れが含まれているが分かって、アーシェルは心の中でクスリと微笑ってしまった。
「……あの、レヴィンさん。どうしてここが……?」
「この国に来た時、君に“探索の術”を掛けておいたんだ。それが効いている間は、離れても対象者の居場所が分かり、“瞬間移動の術”で対象者のもとに行く事が出来る。君はこの国が初めてだから、何かあった時の為にな」
「そうだったんですか……。本当にありがとうございます、お蔭で助かりました……。それと、勝手にお城を出てしまってすみませんでした……。門番さんは全く悪くないので怒らないで下さい。私がレヴィンさんの許可を取ったと嘘を言って通して貰ったんです……」
レヴィンハルトから少し離れ、深く頭を下げるアーシェルに、彼は首を横に振った。
「いや、俺も言葉が悪かった。君を泣かせるつもりは……傷付けるつもりは無かったんだ……。君が外に出たのは、自分を責めて一人になりたいと思ったからだろう? 本当にすまなかった。――その、俺の身体の事はどうでもよくて……。……ただ、セルジュ殿下に嫉妬しただけなんだ」
「えっ?」
アーシェルがバッと頭を上げると、レヴィンハルトはバツが悪そうに顔を逸らしていた。
銀色の髪の隙間から見える耳が赤くなっている事に気付いたアーシェルは、冗談でも無性に嬉しくなり、思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
「……笑うな」
「す、すみません……」
レヴィンハルトは小さく咳払いをすると、アーシェルに顔を合わせる。
「……エイリック・オルティスは、他国で誘拐、強姦未遂をしたが、未成年なので恐らく親の監視下に入る筈だ。国の更生施設に入るかもしれないし、罰金は免れないだろう。何にせよ、君にはもう二度と絶対に近付かせない。奴の親に強く抗議するから」
「……はい」
「俺はこれから、君に【呪い】を掛けたであろうジェニー・パリッシュを調べる。暫く不在にするが、その間、君は俺の屋敷に滞在して欲しい。そこなら常に屋敷の専属医師がいるし、何かあった時即座に対応出来る。君は……国王陛下と王妃陛下には、【呪い】の事は知られたくないのだろう?」
レヴィンハルトの質問に、アーシェルは無言で首を縦に振る。
「……そうだな。セルジュ殿下に続いて、君まで同じ【呪い】に掛かっていると知れば、国王陛下は怒り狂って手が付けられなくなり、王妃陛下はその場で卒倒してしまうかもしれない……。だから、城ではなく俺の屋敷にいた方がいい。医師には伝えておくから、何かあったらすぐに彼に言ってくれ」
「……とても有難いのですが、そこまで甘えてもいいんですか……?」
「あぁ、甘えてくれ。もし気が引けるようなら、今回の詫びと思ってくれればいい。使用人達にも伝えておくから、必要なものがあったら遠慮なく言ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
アーシェルは、そこで一つの疑問を持った。
「あの……レヴィンさんは、貴族なんですか……?」
「あぁ。ローラン侯爵家の当主だ。だから自分の家のように俺の屋敷を使ってくれて構わない」
「こっ、侯爵家の当主っ!?」
実力もあり、城の魔術士副団長を任されているのだから、アーシェルはレヴィンハルトが貴族だろうとは思っていた。
(けど、侯爵家で……しかも二十五歳の若さで当主だったなんて……!)
「では早速俺の屋敷に行こうか。動けるか?」
「あ……は、はい……」
アーシェルは、レヴィンハルトに手を取られて立ち上がる。
「解呪法は必ず見つけ出す。だから、最後まで諦めないでくれ、アーシェル」
「……はい」
レヴィンハルトの真摯な眼差しに、アーシェルは大きく頷き返したのだった。




