0.プロローグ
寄り添う二人の男女に向かう、一つの人影があった。
その足取りは迷う事なく、ベンチに座り、男の胸にうっとりと目を閉じ身体を預ける女と、その女の肩を優しく抱く男のもとへと進んでいく。
男はこちらに近付く気配を感じたのか、胸の中にいる女を愛おしそうに見つめていた薄緑色の瞳を上に向けた。
そして、いつものように柔らかく微笑む。
「……やぁ、アーシェル。また苦言を呈しに来たのかい? 毎回言っているけど、これは仕方の無い事なんだよ。パリッシュ嬢が別クラスの子に苛められたみたいでね、泣いていたから慰めていたんだよ。可哀想な子なんだ、彼女は。編入してきたばかりで、まだ親しい子も出来ていないしね」
目の前の薄緑色の髪を持つ美男子が、つらつらといつものように言い訳を並べる。
桃色の巻き髪と同じ色の瞳をした、可愛い容姿のパリッシュ嬢と呼ばれた少女は、名をジェニーという。
彼女は、アーシェルが近くに来ても彼の胸に身体を寄せたまま動かない。
寧ろアーシェルに見せつけるかのように、ジェニーは彼の背中に手を回してその胸に顔を埋めた。
彼はそれを、一切咎めはしなかった。
「学級委員の僕としては見逃せないだろう? だから、こうするのは本当に仕方の無い事なんだ。君なら分かってくれるだろう、アーシェル? 僕の大事な“婚約者”の君になら」
「……エイリック様」
いつもの自分なら、その言葉に丸め込まれて口を噤み、それ以上は何も言えなかった。
――けれど、今は違う。
もう、彼に対して胸が苦しくなる事も、この二人の仲睦まじい姿を見て、切なくて悲しくて日々涙で枕を濡らす事もしたくない。
そんな時間は無駄だ。そんなものに費やす時間が勿体無い。
――何故ならば。
自分はもう……あと余命幾許も無いのだから――
(……エイリック様。貴方と婚約者の関係になってから、ずっと貴方をお慕いしておりました。けれど――)
「エイリック様」
「ん、何だい? 話は後にしてくれないか。今は彼女を――」
「いえ、すぐに終わります。――『婚約解消』しましょう、私達。今すぐに」
「――へっ?」
全くの予想外の言葉に間抜けな声を出し、エイリックはポカンと口を開けてアーシェルを見つめる。
分厚い眼鏡に隠された碧い瞳は、確固たる意志を持ち、陽の光を浴びて虹色に光りながら婚約者を見据えていた――