ペーパー・クラフト
その一 すっぽかし
大杉千賀子は姉・幸子を訪ねた。
幸子の夫・坂巻義男は今日も外出していた。
「お姉ちゃん。夕飯、どうする? 義男さん、いないのなら、少し早いけど、二人で何か食べに行こうか」
幸子を誘って、ファミリーレストランへ入った。
千賀子には気がかりなことがあった。
姉の記憶が怪しくなってきていた。
今日もデパートのペーパー・クラフト展で待ち合わせしていたが、時間に現れなかった。
姉の家に電話を入れると、本人が出た。約束は完全に失念していた。
この間はデパートで食事し、隣のテーブルのお客さんに迷惑をかけてしまった。手提げの中の財布がなくなった、と騒ぎ出したのだ。
「私はいつもここに、入れてるのよ」
と言い張った。しきりに隣を見たので、不愉快な顔をされた。
「ごめん。さっき、お姉ちゃんが下でトイレに行った時、その手提げ、椅子の上に置きっぱなしだったでしょ。不用心だから、財布は私が預かってたのよ」
千賀子はとっさに自分の財布を渡し、その場を収めたのだった。
姉を家まで送ると、財布はテーブルの上に置いたままだった。
その二 板ばさみ
ファミレスは混んでいた。
幸子は一心にパスタを口に運んでいた。千賀子は食欲がなかった。
「一度、父ちゃんと母ちゃんが大喧嘩したことあったなあ。母ちゃんが実家に帰り、お姉ちゃんと二人で迎えに行ったよね」
姉妹にとって、遠い日の、辛い思い出だった。
両親とも大正後期の生まれだった。父は南方で終戦を迎え、復員した。
もともと、母は気が強くて神経質、父は我が道を行く、だった。すれ違いはあっても、不仲とまではいかなかった。
ある日、母が外で、父に許嫁がいたことを耳にした。女性は父が出征中、原因不明の自殺を遂げていた。その話は地元ではタブーになっていたのだった。
母は帰るなり、父をなじった。
「なぜ言ってくれなかったの。その人のこと、忘れられないのじゃない」
千賀子は、身の置き場がなかった。
以来、両親は何かにつけて言い争うようになった。
「それは母ちゃんの二回目の家出の時よ。一回目は伯母ちゃん家へ迎えに行ったのよ」
言われてみれば、そのとおりだった。おばあちゃんは幼い二人を抱きしめ「何かあったら、いつでもここに来るんだよ」と泣いていた。
姉は、昔のことはよく覚えていた。
姉が駅まで送ってくれた。
その三 逸した婚期
千賀子は独身である。
幸子がいつまでも身を固める気配がないので、千賀子は家を出て交際相手と家庭を持つ話が進んでいた。そこへ降って湧いたのが、幸子の縁談だった。
幸子は嫁に行った。相手は地元の機械メーカーに勤めるサラリーマン、千賀子とは同い年だった。
千賀子の嫁ぐ日を心待ちしていた母親に、変化が起きた。千賀子に婿養子を取れ、と言い出したのだった。両親は晩婚であり、老い先に不安を感じ始めていた。
母の希望を千賀子は交際相手に話した。案の定、農家に婿入りして両親と同居することには、難色を示した。
いつしか行き来は途絶えた。母親の姉は見合写真を手に奔走してくれたが、当人の結婚に対する意欲は失せていった。
四〇を過ぎ、父と母を相次いで看取った後、住み慣れた家を処分し、新興住宅地に建売を買った。
その四 不審者
携帯の着信音が鳴った。
「千賀子! 家に誰かいる!」
つい先ほど、別れたばかりの姉だった。
タクシーで急行した。
姉が玄関で大声を上げていた。
千賀子は恐る恐る近づいた。義男がしきりに幸子をなだめている。
「義男さん。誰かいたの?」
千賀子は訊いた。
「いや。帰ってきて、僕を見るなり騒ぎ始めたのよ」
義男は情けなさそうな顔になった。
「お姉ちゃん。この人、義男さんでしょ。あなたの旦那さんじゃない」
千賀子は姉の両腕をつかんで激しく揺さぶった。
「私は、結婚なんかしてないよ」
姉はそっぽを向いた。
千賀子はもう一度、姉を連れ出した。
喫茶店で取り留めのない話をした。
「もう、こんな時間になってた。お姉ちゃんところ、今晩、泊ってもいい? 昔の写真とか、見たいなあ」
三人で結婚式の写真を見た。
姉は年とともに、母に似てきた。
その五 失踪
半月ほどして、義男から電話があった。
「幸子がいなくなった。そっちに行ってないですか」
義男は途方に暮れていた。
姉の写真を持って、二人で警察署を訪ねた。
「この種の案件は二、三日で解決するものですよ」
慣れっこになっているのか、警察は呑気だった。
時間だけがいたずらに過ぎていった。
姉は交友関係が狭かった。親交のあった友人数人に連絡したが、何の手がかりも得られなかった。
もしかして、と思い、義男の運転で、千賀子たちの生家があったあたりに行ってみた。
子供の頃はのどかな農村だった。
母の使いに行った時だった。帰りに田んぼの畦道でレンゲを摘み、姉がカチューシャを編んでくれた。二人で手を繋いで帰っていると、母が前方に立っていた。遅いので心配して探しに来たのだった。
帰って、叱られた。父が二人をかばったので、また、言い争いになった。
田んぼはすでになく、メダカやドジョウ、アメンボが遊んでいた用水路も埋め立てられていた。一帯は工業団地に姿を変え、昔を偲ぶよすがは、なかった。
その六 真相
義男はあてもなく、クルマを走らせた。
商店街にかつての賑わいは消え、シャッター通りとなっていた。代わりに郊外に大型ショッピングセンターが進出し、国道沿いに、いつの間にかビジネスホテルも建っていた。
ため息ばかりついている義男が、さすがに哀れになってきた。
「そこのビジネスホテルのレストランで、コーヒーでも飲んで行かない」
千賀子の言葉を受け、義男は駐車場に入った。
「どこへ行ったのかなあ。最近、ぼけてきてたからね。自分のこと、分からなくなって、保護されてるのだろうか。それなら、まだ、いいけど。事故にでも遭ってたらどうしょう」
義男はうつむいて、ぼそぼそと話している。定年退職し、請われて嘱託で残ったにしては、パワーが全く感じられなかった。
「お姉ちゃん、寂しかったのよ。どうして、出歩いてばかりだったの。どうして、ほったらかしにしてたのよ」
千賀子は詰問調になっていた。
「家にいても口うるさいだけだから、つい麻雀に‥‥」
麻雀に凝っていることは、姉から聞いていた。
「それだけじゃないでしょ。家に帰らなかったのは」
義男は頭を下げた。
「相手には夫と子供がいる。詳しいことは勘弁して」
千賀子は義男を先に帰した。これ以上、義男と行動を共にしたくなかった。
姉はおそらく夫の浮気に気づいていたのだろう。気丈な姉は、その現実を受け入れることができなかったのだ。家を出た姉の気持ちが、何となく分かった。
念のため、フロントに事情を話して、姉の住所・氏名・年齢と、千賀子の連絡先を伝えて、駅まで歩いた。
二日後、ビジネスホテルから連絡があった。
姉は失踪した翌日から、ホテルに宿泊していた。
フロントでは、毎朝、どこかに出かけて、夕方、帰ってくる女性客を不審に思っていた。
千賀子が帰った後、宿泊者名簿を確認した。坂巻姓ではなかった。住所は地元だが、合併前のものが書かれていた。
ますます気になってきた。電話番号が記されていたので、かけてみたところ、義男が出た、ということだった。
電話だけは無意識に、いま使っているものを記入したのだ。
「坂巻って誰ですか。私は、平山です」
姉は言い張ったらしい。母の旧姓を名乗っていたのだった。
実家に帰った母を迎えに、夕闇迫る田舎道をトボトボと歩いたことがあった。姉もまた、身を寄せる場所は、おばあちゃんの胸しかなかったのではないか。
その七 面会
千賀子は地域包括支援センターに相談して、姉を老人ホームに入所させた。
面会に行くたびに、カチューシャを編んだこと、遅くなって母に叱られたことが話に出る。
「千賀子の旦那さんは元気?」
意表を突かれて、戸惑った。
「元気よ。仕事、忙しくてね。こんど一緒に来るね」
方便とはいえ、苦しい嘘だった。
次回の面会では、義男にも声をかけた。
幸子は作業療法を受けていた。ほかに三人の入所者らしき高齢女性がいた。
チラシを折って、小物入れや手毬を作っていた。色とりどりで、見事な出来栄えだった。
「きれいだなあ」
義男が称賛すると、幸子は義男の顔を見て、軽く会釈した。
「久しぶり。私ね、ここに教えに来てるのよ」
義男が嗚咽をこらえながら、足早に廊下に出た。
「千賀子の旦那さん、どうして泣いてるの? 優しくしてあげなきゃ」
姉は手を休めない。
「みんな、上手になってね。今度、デパートで展示会開くのよ」
姉は手毬をためつすがめつ眺め、満足そうに言った。
千賀子は姉の後ろで、涙をぬぐった。
「すごいじゃない。お姉ちゃん、二人で見に行こう」
思わず姉の背に頬を寄せ、抱きついていた。
「千賀子、この前みたいに、一人で行っちゃあダメよ」
幸子の口調は、昔と変わらない姉のそれだった。