04話 第一異世界人
『ベハンドルング』(治療・Behandlung)
パアアッと白い輝きが溢れて、母ライオンの傷が癒えていく。
自然治癒が早まるイメージをして唱えたところ、生々しく痛々しい傷口から肉が盛り上がって、数日経過した程度には回復していった。
そして忘れてはならないのが、感染症予防である。
傷口から細菌に感染するのは、前世での常識だ。
欧米のガイドラインでは、ほとんど全ての手術で、術後24時間以内に感染予防抗菌薬を投与することが推奨されている。
19世紀後半、ナイチンゲールは感染症予防の必要性を統計学で主張した。
細菌が感染症を引き起こすことが知られていない時代で、初期には常識外れだと批判されたが、結果は全人類で最も有名な看護師になっている。
近代看護の創始者、統計学の先駆者などと称されるナイチンゲールの功績は、数多ある。
現代の病院にあるナースコール、ナースステーションを中心とした病棟、病棟のデイスペース、ベッドのオーバーテーブル、ベッドとベッドの間を離すこと、換気の窓は、すべてナイチンゲールが考案したものだ。
ナイチンゲールによって救われた命は、過去にどれだけあり、未来にどれだけ増えていくのか、想像も付かない。
『アンティバクテリアル』(抗菌・Antibakteriell)
俺は「細菌、てめえナイチンゲール様に勝てるのか」と思いながら、傷口に魔法を掛けた。
やがて治療が終わると、母ライオンが興奮して鳴き始めた。
「ガーオッ、ガーオッ」
従姉妹を心配しているのか、取り残された子供を心配しているのか。
だが生憎と母ライオンは、大怪我をしている。
『怪我しているから、動いたら駄目』
「ガーオッ、ガーオッ」
『敵が来て、俺達も危険になる』
「ガルルルルッ……」
母ライオンが大人しくなったので、俺はミルクを口に含んだ。
連続で行使した魔法により、俺の疲労は大きくなっている。
このまま寝てしまいたいが、そういう訳にもいかない。
今のうちに動かないと、拙いことになる。
――1日500ミリリットルが、4頭。
子ライオンが肉を食べ始めるのは、生後3ヵ月ほど。
生後1ヵ月の俺達には、これからも2ヵ月ほど、ミルクが必要だ。
そんなミルクは、母ライオンの血液を材料に作られている。
メスライオンは、1日3から4キログラムほどの肉を食べる。
タンパク質や脂質の多いミルクを作るには、多くのエネルギーを消費しなければならないので、哺乳期間には食事量が増える。
だが足が傷付いた母ライオンには、食べるための獲物を狩れないのだ。
――シマウマとか、倒れていないかな。
シマウマを確保出来れば、母ライオンの怪我が治るか、俺が肉を食べ始めるまで余裕で保つ。
気温が高くて腐敗しやすい外を避けて、穴の中で食べてもらい、食べていない時には空間収納に入れておけば、なんとかなるかもしれない
『餌、取ってくる』
「ガッオーッ」
子猫のような俺の体格を見た母ライオンは、止めておきなさいと諭してきた。
『肉、必要でしょ』
「ガッオオォーッ」
『俺は、出来る子』
ジッと見つめ合ったところ、母ライオンは、俺を穴の外に押し出してくれた。
「ミャウッ」
穴の奥からリオが鳴き声を上げてきたので、念のために忠告しておく。
『良い子で待っていろよ』
「ミャゥッ!」
リオはベシッと地面を叩いて、ぞんざいな扱いに抗議を示した。
俺は「やれやれ」と穴から這い出て、茂みの中をトコトコと歩き出す。
初めてのお使いイベント発生である。
普通の猫くらいには大きくなった俺にとっては、実現可能なイベントであろう。
まずは帰る場所を、見失わないようにしなければならない。
俺は穴を掘った時に収納空間に突っ込んだ石に、土魔法で目印の魔法を籠めた。
『ゼンダー、ゼンダー』(発信器・Sender)
イメージしたのは、猫の首輪に付ける発信器である。
猫に付ける発信器は、3年ほど保つらしい。
念のために2個作って、その場にポイポイと捨てた。
『やばい、やばい。ミルク、ミルク』
魔法を使うと、エネルギー消費が半端ない。
ミルクを口に含んだ俺は、肉の確保が至上命題と再認識して、茂みを抜け出た。
するとそこには、踏み固められた道があったのである。
――人間が作った道か。
人間の生態については、人間だったので熟知している。
気になるのは文明レベルだが、『楽に天寿を全うできる条件』で天使に薦められなかったので、天寿を全うできない文明レベルなのだと推察できる。
ライオンを薦められたのだから、人間は銃で動物を撃てるレベルでもない。
最大でも中世ヨーロッパに、魔法を足した程度だと俺は仮定した。
『人間が倒した動物の死体でもあれば良いが……肉食動物の死体は、微妙だな』
肉食動物は、植物からしか摂れない必須ビタミンを、草食動物の内臓を食べることで摂取する。
肉食動物を食べても必須ビタミンを摂取できないので、ライオンはハイエナの肉を好まないし、ハイエナもライオンは好まない。
あまり贅沢も言えないと、俺は道を歩き始めた。
警戒はしており、危険な敵が現れれば、穴を掘って隠れる所存だ。
ミルクを口に含み、あるかもしれない魔力値を最大限まで高めて、トコトコと歩いて行く。
すると前方に、人影が見えた。
成人男性が1人と、10歳くらいの少女が1人である。
――どうすべきだ。
こちらは生後1ヵ月のライオン、1頭である。
大きさはイエネコ程度で、人間にとっては、まったく脅威ではない。
俺は立ち止まり、まずは敵意が無いことを示すべく、鳴いてみせた。
「ミャオッ、ミャオッ」
さらに仰向けになって、背中を地面に擦り付けて腹を見せる。
「ミャーオ」
こちとら、本物のネコ科動物である。
そして前世が人間なので、人間の生態も熟知している。
人間共、特に少女は、子猫が好きだ。
ぬいぐるみを持っていない女子は、あまり居ない。
俺の見事な演技に、大人の男は警戒を怠らなかったが、少女は近付いてきた。
そして俺の毛並みを撫でて、モフり始める。
「パパ、この子、うちで飼って良い?」
「駄目に決まっているだろう。諦めなさい、ヨハナ」
「えー、こんなに可愛いのに」
完全に罠に掛かった少女に向かって、俺は鳴いて見せた。
「ミャォッ、ミャーッ」(食べ物、ちょうだい)
「えっ、言葉が分かるかも。食べ物が欲しいの?」
「ミャァッ、ミャッ。ミャオゥ、ミャウッ」(お肉、ちょうだい。母が、食べる)
「うええええっ!」
少女が俺を離して飛び退いた。
ライオンが自分を食べようとしているとでも、誤解したのだろうか。
離れて見守っていた成人男性が、剣を抜いて駆けてくる。
俺は慌てて、祝福の言語翻訳を最大限に活かして、弁解した。
『母が怪我した。ミルクのために、動物の肉が必要。シマウマとか』
決して人間を食べようとしたわけではないと、俺は慌てて弁明した。
雑食性の人間は、肉食動物のハイエナよりも良い食料になるが、少女では大きさが足りない。
俺は母ライオンのために、400キログラムのシマウマあたりが欲しいのだ。
少女を庇って前に出た男に向かって、俺は交渉を試みた。
『取引。肉くれたら、大きくなったら、1回力を貸す』
「お前、念話が出来るのか。ライオンに、一体何が出来る」
『土魔法、使える……トンネルバウ』
俺は足元に、ボコッと穴を掘ってみせた。
すると男は、目を見張って驚いた。
俺は有益さを証明するために、もう一つの魔法も使ってみせる。
『光魔法、使える……ルミネセンス(発光・Lumineszenz)』
俺の前脚がピカーッと輝き、次第に光が消えていった。
『お腹空いた』
本日10度目の魔法を行使した俺は、コテンと引っ繰り返った。
もちろん可愛く転がって、銀髪少女へのアピールは忘れない。
俺は、やれば出来る子なのである。