36話 雨季の始まり
俺達の群れは、ナワバリの端から中心へと、移動を始めた。
切っ掛けは、メスライオン1頭が、ナイルワニの犠牲になったことだろう。
ライオンだって、自分達が危険だと思えば、移動することがある。
群れの足取りは、流石に重かった。
――陽気にスキップされるよりは、行動が理解できて良いけどな。
もしもヒャッハーと喜んでいたら、俺は群れに付いていく自信が無くなる。
もっともナイルワニは、群れの仲間が死んでも、あまり気にしなさそうだ。
前世で俺は、動物園のワニが『投げ込まれた餌』と『別のワニの左前脚』を間違えて、食べた映像を見たことがある。
左前脚を食べられたワニは、振り返り、自分の左前脚を食べたワニを見つめた。
食べたワニのほうは、顔を逸らした。
そして10秒ほどで、左前脚を食べられたワニは、そのまま歩み去った。
哺乳類には、理解不能な感覚である。
『ワニ、怖いね』
隣を歩くリオは、ションボリとしていた。
怖いという感情については、まったく同感である。
ちなみに俺が所属する群れで犠牲が出たのは、リオの母親以来だ。
俺は歩きながら、隣を歩くリオに顔を擦り付けた。
これはライオン流のコミュニケーションで、ストレスを軽減させる効果がある。
すると普段は、易々とは応じないリオが、俺に顔を擦り付けてきた。
リオのストレスは、かなり溜まっているようだった。
『川と沼には、要注意だな』
リオに顔を擦り付けられた俺は、余裕があるイケメンの振りをして、格好を付けて宣ってみた。
実際の俺は、リオに振られると、同族の知能が低すぎて、困ったことになる。
俺が所属する群れの賢さは、危険なスイギュウを子供だけで襲い、沼に飛び込んでナイルワニに食べられるほどの低次元だ。
俺以外が、保育園児並の知能だった場合、俺の役割は保育士になってしまう。
保育しなくても、生きていけるかもしれないが、俺の群れの生存率は下がる。
それをストレス無く許容できるのかは、非常に疑わしい。
話が通じる仲間が欲しいというのは、わりと切実な願いだ。
――賢いリオも、同じ状況のはずだけど。
リオも大変なはずなので、俺との駆け引きは止めてもらいたい。
だが異性との駆け引きは、相手に対する条件交渉でもある。
俺が全面降伏しない限り、止めてくれるのは期待薄だろう。
駆け引き自体が俺の勘違いで、単なる拒否だったら、それはそれで悲しいが。
――女子は、不良を好きになるらしいけど、ライオンも同じなのかな。
俺がイメージする不良は、トー横キッズのような、夜の繁華街に群れる連中だ。
髪は派手に染めていて、耳にはピアス穴があり、おそらく薬物も使っている。そして彼らは、小説なんて絶対に読まない。
前世で小説投稿サイトの読者だった俺とは、明らかに真逆の性格だ。
俺が典型的な不良になるのは、ちょっと難しい。日本人の『ちょっと難しい』は、絶対に無理の意である。
そんな下らないことを考えていると、後ろからミーナが声を上げた。
『あのワニ、最初は居なかったよ』
ライオンとして生後6ヵ月半を過ぎたミーナは、人間の2歳半ほどだ。
人間の2歳半は、お話しが出来るようになった年頃だ。
そして俺には言語翻訳の祝福があるので、ミーナの言いたいことが分かる。
意思疎通できる俺に対して、ミーナは疑問を投げかけた。
ミーナが言及したのは、メスライオンを襲った大きなナイルワニだろう。
俺達は半月ほど沼の付近に滞在したが、当初は大型を見かけなかった。
最初から居たのは、大人のメスライオンを捕食できない、小さな個体だけだ。
『あの沼は、川と繋がっていた。だから、川から来たんだろう』
『ワニは、どうして来たの?』
『俺達が同じ場所に居たら、インパラが逃げるだろう』
『うん』
『ワニも同じで、動物に逃げられるから、他所から来たんじゃないか』
『そうなんだ』
ミーナの疑問は、氷解したようだった。
賢く育っている妹に対して、俺は大満足である。
このまま知識を吸収して、小学生くらいの賢さに成長してもらいたいところだ。
中学生くらいまで育てば最上だが、ライオンは、どこまで賢くなるのだろうか。
教科書で身に付ける学問は無理としても、獲物の強さを見極めるとか、危険な場所は避けるとか、そういった賢さは持ってほしい。
『深い水の中には、入らないようにしろよ。ワニが居るかもしれないからな』
『分かった』
ライオンは強い動物だが、どんな動物に対しても勝てるわけではない。
人間以外にも、アフリカゾウ、サイ、カバ、ナイルワニには負ける。
ライオンの戦闘力や俊敏性が落ちる水中では、一方的に負けてしまう。
しかもナイルワニは、俺達が食べたところで、必須ビタミンを摂れない。
強い上に、倒しても得られるものが無い。
その点では、ゾウやサイよりもタチが悪い。
ライオンにとってナイルワニは、人間に次いで相手にしたくない動物だろう。
――俺の場合は、人間よりもナイルワニのほうが、相手にしたくないかな。
言語翻訳の祝福を持つ俺は、人間とは交渉の余地がある。
実際に、俺が出会った人間のグンターとヨハナには、クロサイの取引をしたり、スイギュウの肉を切ってもらったりした。
それに対して爬虫類のナイルワニは、明らかに交渉不可能だ。
交渉するために必要な知能を、相手に期待できない。
互いに欲しいものが、肉しか無い。
ナイルワニに転生した小説投稿サイトの作者や読者が居て、俺との意思疎通が叶ったところで、俺がナイルワニから得られるものは思い付かない。
つまり取引は、成立しない。
俺に限れば、ナイルワニは、人間よりも関わりたくない相手かもしれない。
そんな風に思いながら歩いていると、空からポツリと、水滴が降ってきた。
『……雨か』
水滴を身体に受けた俺は、俺達が住んでいる地域がサバンナだと確認した。
サバンナとは、乾季と雨季がある、熱帯の長草草原地帯のことだ。
年間降水量が600ミリ以下で、夏に雨季があり、ほかの季節は乾季となる。
今までは推定だったが、これからは確定のサバンナである。
ちなみに雨季とは、その地域における一年間で最も雨の降り続く季節のことだ。
日本の場合は、梅雨などが雨季にあたる。
漢字で『雨季』と書くと、常に雨が降っている印象を受けるが、日本で梅雨入りしても晴れの日があるように、サバンナも常に雨が降るわけではない。
そもそもサバンナの年間降水量は、日本の3分の1以下だ。
日本ほど雨が降るわけではない。
『雨って何?』
俺の呟きを聞いたミーナが、難しいことを尋ねてきた。
俺は敢えて単純化した答えを返す。
『空から、水が降ってくるのが雨だ』
『どうして、水が降ってくるの』
保育園児に雨の原理を説明するには、どう話したら良いだろうか。
教える側が説明を放り投げると、子供も理解を諦めて、賢くならない。
親の知能が高いと、子供の知能も高くなる傾向があるのは、遺伝要因と同時に環境要因もあるからだ。
『川の近くの水たまりが、無くなることが有るだろう』
『うん』
『あれが消えるのは、小さくなって、空に上がっていくからだ。それが空に溜まって、降ってくるのが雨だ』
『どうして小さくなるの』
水が沸騰すると、水分子が活発に動いてバラバラになり、小さくなる。
つまり蒸発して水蒸気になり、上空で冷やされて降ってくる。
これを保育園児に分かり易く伝えるには、どのように説明すべきだろうか。
俺は助けを求めてリオを見たが、リオは俺の困った様子を笑って眺めるだけで、手伝ってくれなかった。
『水は、触ったり、飲んだりしたら、小さくなるだろう』
『うん』
『触らなくても、少しずつ小さくなっていくんだ』
『うん』
『小さくなって、空に上がった、雨になって降ってくる』
『そうなんだ』
俺の説明は十分ではなかったが、ミーナは一応納得してくれたようだった。
保育園児を育てるのは、とても大変だ。
そんな風に思いながら、俺達はナワバリの中心へと帰っていった。
























