33話 端にある沼
「ウヴァーアッ」
悪魔のような重低音が、沼に響き渡った。
声を発したのは、ナイルワニに足を噛まれたセーブルアンテロープである。
ロバよりも低く、キリンよりも雄々しい。
まるで地獄に住まう、悪魔の雄叫びのように感じ取れた。
『この沼、ナイルワニが居るのかよ』
セーブルアンテロープは、頭部を振り回して、必死に抵抗している。
だが、分厚い皮に覆われたナイルワニのほうは、まったく気にしていない。
ひたすら本能のままに、獲物を沼へと引き込もうとしていた。
「ガオッ」
ナイルワニの姿を見たリオが、沼から少し後退った。
『どうして、あんなのがいるの?』
『この沼は、川幅の広い川と、繋がっていたよな』
『うん』
『だったら、川の先から来たんだろう』
改めて考えれば、ナイルワニが居ることに不思議はない。
以前、人間に見せられた地図によれば、南に山脈、北に巨大な内海があった。
この川は、南に見える山脈から流れてきて、北の内海に接続している。
地球のサバンナに似た環境で、俺達ライオンやシマウマ、スイギュウなど生息しているならば、その環境にナイルワニだけが生息していないはずがない。
陸にすら上がれるワニであれば、余裕で川を移動できるだろう。
『魚とか、追ってきたのかもしれないな』
ナイルワニは、小さい頃には、魚などを食べて育つ。
そして大きくなれば、水辺に潜んで、陸の動物も捕まえて食べる。
その動物が、目の前で襲われるセーブルアンテロープなどになるわけだ。
もちろん草食動物に限らず、わりと何にでも噛み付いて、食べようとする。
ナイルワニは、百獣の王と呼ばれるライオンであろうと、襲うことがある。
『あれ、あたし達が噛まれていたかもしれなくない?』
『確かに、下手をしたら、噛まれていたかもしれない』
俺やリオ、ミーナら子ライオンは、目の前の光景に、どん引きである。
実際に、水を飲んでいた沼からは、何歩か後退している。
平然としているのは2歳年上のビスタ、そして大人のメスライオン4頭だ。
おそらく彼女達は、ナイルワニを見慣れているのだろう。
そんなメスライオン達は、サッカーのフィールドくらいの広さの沼をグルリと外回りしながら、対岸に向かって駆け始めた。
それをビスタが追い、ビスタにギーアが付いて行き、アンポンタンも駆ける。
『リオ、付いて行くぞ』
『でもでも、何か居るんだけど』
『あいつら、陸にも上がれるぞ。一番安全なのが、大人達の傍だ』
「ガオォォ」
嫌そうな鳴き声を上げたリオは、慌てて大人達の後を追った。
俺とミーナも付いて行き、ライオンの群れが一斉に、対岸に回り込んでいく。
すると対岸のセーブルアンテロープの群れは、ナイルワニと引っ張り合っている仲間を見捨てて、走り去った。
セーブルアンテロープは角が鋭くて、1頭で複数のメスライオンを同時に追い散らすこともある。
だが草食動物なので、ライオンと戦っても食料を得られるわけではない。
そのため肉食獣が迫ってくれば、基本的には逃げていく。
仲間が去る中、取り残されたセーブルアンテロープは、必死に抵抗していた。
――ガッチリと、噛まれているな。
セーブルアンテロープの足は、ナイルワニにガッチリと噛まれている。
強引に引き抜けば、おそらく折れるだろう。
その状態では、引き抜くために左右に振るのも危ない。
引き抜けるかもしれないが、足の骨折が治るのは、数ヵ月後だ。
その間、走れなくなると、ライオンなどの捕食者から逃げられない。
引き抜けるチャンスは、ナイルワニが噛み直すために口を開ける瞬間だけだ。
『あれは、逃げられないな』
ナイルワニは、獲物の足を折っても構わないため、容赦なく引っ張っている。だが、なかなか沼まで引き込めないでいる。
ナイルワニの大きさは、セーブルアンテロープの全長と同程度だ。
両者が引っ張り合う間、移動したメスライオン達は、陸の三方を包囲した。
幼獣の俺達は、ある程度の距離を取って、遠巻きに様子を眺める。
ちなみにアンポンタンとギーアも、ちゃんと距離を取っている。
『リオもミーナも、あまり近付くなよ』
『大丈夫。頼まれても行かないから』
『ミーナも行かない』
『2頭とも、偉いぞ』
俺はリオとミーナの顔に擦り付けて、ライオン流に2頭を褒めた。
するとリオからは前脚でベシッと反応があり、ミーナは擦り返してきた。
大人達もワニを警戒してか、直線的には飛び掛からず、慎重に近寄っていく。
ナイルワニの皮は厚いので、ライオンの鋭い牙でも、中々噛み裂けない。
対するナイルワニの咬合力は、ライオンの5倍から10倍とされる。
しかもデスロールという、噛んで身体を回転させる技で、相手の肉を噛み裂く。
水中で回転されると、顔が水の中に沈んで、息まで出来なくなる。
ライオンがナイルワニと戦う場合、水中では圧倒的に不利だ。
ライオンが戦うのが、好ましくない動物の1種が、ナイルワニであろう。
――狙っているのは、ナイルワニが噛んだセーブルアンテロープだけどな。
セーブルアンテロープとナイルワニの引き合いが釣り合っているのなら、ライオンが陸から引っ張れば、引き上げられる。
メスライオン達は、セーブルアンテロープに爪を引っ掛けた。
そして陸側に、引っ張り始める。
ナイルワニに仲間は居らず、獲物はズルズルと、陸側に引き摺られていく。
『スイギュウを食べれば良いのに』
『ミーナは賢いな。独立したら、ワニとは争わずに生きていこうな』
『あれ、ワニって言うの?』
『そうだぞ。水の中に隠れているから、気を付けろよ』
ワニは、2億年前から現在の姿を保った、造形の完成度が高い捕食動物だ。
鋭い牙は、しっかりと獲物を捕らえる。
分厚い皮は、防御力に適している。
体高の低さは、浅い水深で水中に隠れるのに向いており、反撃も受け難い。また泳ぐのにも、回転するのにも適している。
恐竜時代を生き延びて、その間に身体の造形を変えなかったことから、完成度の高さは折り紙付きだ。
『水の中には、カバという生き物もいる。それも危ないから、近寄るなよ』
『カバって何?』
『ワニよりも、大きな生き物だ。牙が大きくて、噛む力も強い』
カバは、ナイルワニにとっても厄介な動物だ。
カバの咬合力は、ライオンの2倍から3倍ほどだ。
ただし 牙の長さが50センチメートル以上で、ナイルワニの身体も貫ける。
しかもカバは、ナワバリに敏感で、ナイルワニが近寄ると攻撃して排除する。
ワニが獲物を襲うと、カバが寄ってきて、ワニを攻撃することもある。
ナイルワニもカバは嫌がって、離れていくそうだ。
ライオンを狩るマサイ族ですら、カバからは逃げるのだから、どれほど危険なのか察せられる。
『とりあえず沼を見渡した限り、カバは居なさそうだ。見つけたら、教える』
『うん、分かった』
俺が話している間に、大人達が、セーブルアンテロープを引き上げた。
付いてきたナイルワニには、ジャンプで回り込み、パンチをお見舞いする。
意外なことに、ライオンのパンチは、ナイルワニに対して有効だった。
メスライオンは、ナイルワニの頭の上に爪を立てて引っ掛けて、ナイルワニが噛めないように上から押さえ付けた。
ライオンの前脚が、何度もナイルワニの頭を叩いていく。
目の辺りを攻撃されたナイルワニは、獲物を離して、沼のほうに逃げ出した。
バシャンと水飛沫が上がり、ナイルワニの身体が、沼の中に沈んでいった。
























