16話 離乳期へ
サバンナの一画に、平和が訪れた。
まるで戦争でもあったような言い方をしたが、改めて考えれば、ライオンとハイエナの争いは、サバンナの日常であった。
ハイエナ側は、10頭が25トンの岩に押し潰されて、総数が十数頭に減った。
ライオン側は、誰も死んでおらず、戦力差は2.5倍ほどになっただろうか。
これだけ差が広がれば、流石に勝敗は決したと思われる。
『さて、降りるか』
ハイエナの別働隊を押し潰して、数分が経った。
数分も出られなければ、もう自力脱出は無理だろう。
そのように判断した俺は、木から降りた。
そしてトコトコと歩き、岩に触れて震動を確かめる。
『安全確認、よし!』
なお現場猫の判断基準は、体感である。
だがブチハイエナは、体重60キログラムだ。
荷運びに優れた馬は、自身と同じ体重まで運べるそうだ。
ハイエナの能力が馬と同等と考えても、10頭で600キログラムを持ち上げるのが精々だろう。25トンは2万5000キログラムで、41倍も重い。それでは流石に耐えられないだろう。
一晩ほど岩を置いておけば、その下で生きていられるとは思えない。
もう大丈夫だと思った俺は、ポカンとしている一同に声を掛けた。
『大丈夫だと思う』
『本当に大丈夫?』
『多分な』
リオに聞かれた俺は、安全そうだと報告した。
そして不意に思い出す。
『やっぱり、別のハイエナが来るかも』
『馬鹿っ!』
木から降りようとしたリオが、俺を罵倒しながら、慌てて木の上に戻った。
ちょっと油断したかもしれない。別働隊を失ったハイエナは、常識で考えれば諦めると思うが、断言は出来ない。
俺の懸念事項は、ハーレム帰りのオス2頭とメス2頭の空腹だ。
ハーレム中のライオンは、食事をしない。
4頭が飢餓状態になると、ハイエナとの戦力差が、再び逆転しかねない。
――仕方がない。へそくりを出すか。
俺は、クロサイと入れ替えで収納していたスイギュウを出すことにした。
『空間収納』
ドドンと現れたのは、かつて兄のエムを体操選手のように宙で回転させて、ウサギ跳びで逃げさせた大人のスイギュウである。
推定体重、700キログラム。
俺の独立時に、ギーア達を引き連れても1ヵ月の食料になると見越した大物だ。
これなら親達と兄姉に食べさせても、半月分の食料になる。
――置きっ放しでも、誰も引き摺って行けないだろうな。
ハイエナを埋めた土の上に食料を出した俺は、再び木の上に戻った。
先に出しておいたのは、俺が食事を生み出せると勘違いされては困るからだ。
親達が帰ってきた時にあったら、普通は俺が出したとは思わない。
ミーナを怪我させた相手が、ハイエナではなく、スイギュウと思うだろう。
そして勝手に突発死したと考えるはずだ。
――サバンナで病死する動物は、少なからず居るし。
想定は、完璧である。
ライオン側は、お腹が一杯になって余裕が出来る。
ハイエナ側は、なぜか10頭ほどが帰ってこなかった。
ハイエナ達の未来は、ライオンの鼻先からの移住か、群れの壊滅しかない。
おそらく子供を生むために、俺達のナワバリの端まで移住して行くだろう。
それらを確信して木の上に戻った俺は、ポンに問われた。
『今の何?』
『空から岩が落ちてきた。俺も驚いた』
『あのスイギュウは何?』
『影から出てきた。俺も驚いた』
俺の完璧な説明を聞いたポンは、何故かベシベシと叩き始めた。
『あれは何かな?』
『……お姉ちゃん、痛い』
戻ってきた親達が、岩とスイギュウに仰天したのは、それから少し後である。
◇◇◇◇◇◇
「グオ、グオッ?」(これ、なんぞ?)
「グオオォ、オッ」(でけぇなおい)
岩とスイギュウを前にしたオスライオン達が、唖然としている。
いきなりは食い付かず、前脚でバシバシ叩いて、スイギュウの感触を確かめる。
そしてスイギュウだと確認した後、爪を引っ立てて、ガリガリと引っ掻く。
母達と兄姉も参戦してスイギュウを攻撃し、噛み付いて、やがて食事を始めた。
「グオオオオッ」(腹減ったああっ)
「ガオオオオッ」(喰わせろおおっ)
猛獣達が四方から、スイギュウをグルリと囲んだ。
よほど腹が減っていたのだろう。
スイギュウの身体に噛み付いたライオン達は、ガブガブと食べ始めた。
スイギュウの身体は巨大で、ライオンの群れでも同時に囲める。
唯一、尻尾の先端を噛み千切られたミーナが囲みに加わらず、鳴いていた。
『痛い……痛い……』
身体を丸めたミーナは、尻尾を顔の前まで伸ばして、先端を舐めていた。
人間にすれば、手の指を2から3本ほど無くしたくらいの傷だろうか。
親ライオン達は、ミーナを一度は確認したが、理解した上で無視した。
実際にライオン達には、出来ることなど無い。
沢山食べて、自然治癒力を発揮して、自分で元気になるしかない。
猛獣達の饗宴から一歩引いた俺は、ミーナの下へ歩み寄った。
『ミーナ、お兄ちゃんが治療を試してみようか』
「にゃあっ、にゃあっ」
ミーナは痛さのあまり、幼児化していた。
もっとも現時点で生後2ヵ月半であり、紛れもなく幼児であるが。
『前に、母を治しただろう。試すぞ』
「にゃあっ」
尻尾の先端を失ったミーナは、いずれ群れから追い出される可能性が高い。
ライオンの群れは、わざわざ弱い個体を残してくれたりはしないのだ。
俺は大人達の関心が肉に向いているのを確認して、ミーナに魔法を使った。
『アンティバクテリアル』(抗菌)
まずは抗菌魔法である。
ナイチンゲールの強さを思い浮かべつつ、ミーナの傷口を消毒した。
そして立て続けに、光魔法を行使する。
『レゲネラツィオーン』(再生・Regeneration)
俺がイメージしたのは、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の凄い版である。
細胞を増殖させる機能を魔法で補い、欠損部位を再生させるイメージだ。
2006年に誕生した人工多能性幹細胞よりも魔法が優れると確信する理由は、光魔法を与えた存在が、転生や空間収納なども行っているからだ。
両者が到達している科学技術のレベルは、まさに次元が違う。
ピカーッと光ったミーナの尻尾の先端は、ニョキニョキと再生していった。
『治ってる』
魔法を受けたミーナ自身も、治ったと自覚したようである。
治療した俺は、尊敬の眼差しで見詰めるミーナに、今が教育の機会だと思った。
『ミーナ、覚えておけ。お兄ちゃんは、凄い』
『お兄ちゃん、凄い』
『お兄ちゃんとギーアの意見が違ったら、お兄ちゃんが正しいからな』
独立した後、俺とギーアの意見が割れることがあるだろう。
その時のために、あらかじめ味方を増やしておく戦法である。
『それじゃあ、肉を食べに行くぞ。お前は、もう少し大きくなれよ』
俺はミーナを引き連れて、安全そうなアンとポンの間に入っていった。
空腹のオスライオンは、食事中に隣のライオンを追い散らすことがある。
一撃が強烈で、大人のメスライオンでなければ怪我をする。俺達は、危ない。
すでに食べ始めてから暫く経っており、オスライオン達の荒々しさは多少弱まっていたが、俺は慎重を期した。
『はぐっ』
裂かれたスイギュウの身体の端に噛み付いて、モサモサと肉を食す。
生レバーのような味が、口の中にじわりと広がった。
俺にとっては、今世で初の肉である。
ライオンに転生したからか、生肉はとても美味だった。
――マグロ、甘エビ、イカ、ホタテ、ウニ、イクラが乗った海鮮丼くらいか。
滴る血は、海鮮丼に付くお茶であろうか。
前世で海鮮丼を美味しいと思ったのと同程度、今世の生肉は美味しかった。
俺とミーナは無心で食らい付き、スイギュウの肉を貪ったのであった。