貧者の水3
「……とりあえずそれ関係の話は今置いておくとして――」
茹だる頭からのアラートに辛は話を1度区切る。それはただの現実逃避に過ぎなかったが、ここはまだダンジョンの中、今自分に起きている事象よりも優先すべきことがあった。
ビーズクッションのような下半身を揺らし、青銅の胸像となった身体が震える。時間を無為に使ってしまった、と反省しながら、
「――ここからどうやって脱出するか、算段はついてる?」
舞1人で助けに来たとは考えにくい。少なくとも課長の新堂も一緒に救助へ来たはずだ。セオリー通りなら他に10数人連れ立っているはずだが、悲しいかな、そんな人員に余裕は無い、はず。
どちらにせよ、目の前の暴走列車のような少女は団体行動を良しとせず、単独行動を行った結果迷子になったのだろう。それで助かった身分からすればくどくどと怒る気にはなれないが、要救助者が1人増えたようにしか見えない他の捜索隊の心中は台風直下の海原並に荒れていることだろう。
対して舞は、迷惑をかけていることに気づいているのかいないのか、2本目の煙草にマッチで火をつけて、
「あ、眠ってる間に見つけときました」
「そうなの?」
今1番の命題に、四つ葉のクローバーを見つけたような純朴さを顔に貼り付けて言う。やめてくれ、そんな簡単に話を進められると絶体絶命に追い込まれていた自分が無能みたいじゃないか。
敵わないなぁ、と辛は眉をよせる。干支が1回り近く下の相手が、力も経験も劣るはずの子に救助だけでなく命まで助けられ、今も尚動けるようになるまで待ってもらっているのだ。これが情けなくないなら何を情けないと呼ぶのだろう。
俯き表情に影を落とす辛に、舞は腿のあたりを2度叩き、その軽快な音色が岩穴の中をどこまでも反響して、丁字路から顔を覗かせたのはモンスター、ゴブリンだった。その不用心な行動に目を丸くし、しかし相手は雑魚中の雑魚でたった1体、そこだけは幸運だったと未だ慣れぬ身体に力を入れると、
「私……って言うより家族が、ですけど」
舞が煙草を咥えたまま立ち上がる。
……家族?
家族とは、あの家族だろうか。確かにそれに近しいことを幾度か口にしていたような気もするが、特段気にも止めていなかったため、今1度紹介され、襲う気配もなく静かに佇む御仁に、
「……ゴブリンだよね?」
「山ゴブリンです」
世界最高難度の間違い探しのような小さな違いを指摘される。それはそんなに大事なことなのだろうか、と疑問が浮かぶが、家族の問題ならと納得もいく。
いいな、と考えてしまうのは、愛情に飢えているからなのか、それともモンスターになったせいで精神までも引っ張られているからか。ぼおーっと山ゴブリンを眺めていた辛は、不意に口の中に溜まるものを感じて、
……美味しそう。
くうくうとお腹が鳴る。
……。
……は?
まさかまさかと首を振って否定する。モンスターを食料として見る日が来るとは、それはありえないことだった。
その眼光に気づいてしまったのだろうか、山ゴブリンは姿を消す。その代わりこれまた柔らかく美味しそうな人間の少女が立ち上がり、火傷の痕のような酷く爛れた腕を伸ばす。
「そろそろ行きましょうか。六波羅部長と新堂課長もそこにいますよ」
「そう……って、腕大丈夫なの?」
「ちょっと酸で溶けただけですし、薬塗ればどうにかなるんじゃないですか?」
自分の身のことなのに他人事のように話す舞へ、いやいやと辛が首を振る。嫁入り前の娘に大きなやけどの痕なんて論外である、事の重大さがわかっていない顔になんて言葉をかけていいか、そのやけどの原因が自分にあることを思い出して、口を閉じざるを得なかった。
「ごめん、ありがとう……あっ!」
ならば今できることは早く地上に戻ることだろう、放っておいて治らない痕に、そうでなくともシミになってしまえば今後顔を合わせるたびに申し訳なく感じてしまう、それを忌避して重い身体を持ち上げようとしたときだった。
「ねえ、新人くん見なかった!? ちょっと……はぐれてさ」
少し言葉にためらいを見せて、それでもはぐれたと言ったのは、彼女なりの優しさと、手助けできなかった後悔だった。
サイクロプスに襲われてからすでに1時間近い時間が経過している。その間、たった1人でダンジョンをさまよっているなら、それも武器もなく、生存は考えにくい。それでも、無事を諦める言い訳にはできず、
「あぁ、2つ先の通路で伸びてますよ。今家族が見てるんでロープでぐるぐる巻きにしてますけど」
人の気も知らないで気楽に言う少女に、むしろ腹が立つ。なんでもかんでもうまくやればいいというものではないのだ、心構えをする時間もなく言葉の弾丸を軽機関銃のように連射されてしまえば感情の置き場に困るのが人というもの。
そんな身勝手な考えを持ちつつ、よかったと安堵もする。しかし、
「……なんで簀巻き?」
「寝起きに山ゴブリン見たら襲われそうで」
確かに、納得。
それ以上会話を重ねることなく舞は辛に背を向けて歩き出す。今急速に必要な時間は取ったということなのだろう、辛もぎこちなく揺れる身体で這いながらその後ろをついていた。




