シーシャ2
パンッ。
「はい、そこまでー」
気の抜けた声が耳元で響く。何が起きたのか把握する前に、ようやく瞼を閉じることに成功していた。
目の前に合掌があった。空気の弾ける音の正体は舞が手を合わせたことによるものだった。
……あ。
思考が回る。見たものがなんなのか分かるようになり、四肢が、皮膚が反応を返す。
後遺症のように反応が鈍いのは状況を理解出来ていないため。先程までのことはなんだったのか、推測するよりも早い方法があった。
「なんだ……今の……」
話し方を忘れてしまったようにおぼつかない舌で新堂は問う。ただ見るを見る状況は白昼夢のようだった。
耳障りな嘲笑が聞こえていた。その横で舞は言う。
「どうだった?」
「どうだったって……何がなにやら」
本音を言う。煙は晴れていないはずなのに舞の顔がくっきりと見えていた。
……んん?
おかしいということに気付く。ギリギリ眼鏡が必要ない程度に視力は悪いはずなのに、今は遠くを細部まで見ることが出来ていた。
煙草で視力は回復しない。考えるまでもない、当然のことだ。ではなぜ、と無言のまま俯く新堂に、
「すーっとした?」
舞が上目遣いで尋ねていた。
それに新堂はやや首を捻り、
「すーっとしたって言うか……見えてるって分かってるのに頭は分かってないっていうか……。何がなにやらよく分からない、頭が馬鹿になった気分だよ」
「馬鹿になったわけじゃないよ」
「そうか」
「元から馬鹿なんだよ」
暴言を吐かれ、新堂は拳を作る。
この野郎と振り下ろすが、頭蓋骨に当たる寸前で止まる。止めたわけじゃない、止められていたのだ。
「すまんな、口の悪い娘で。こちらから注意しておくからその手を降ろしてくれないか」
手首を掴まれている。直前までソファーに深く腰掛けていたはずの大柄な男性が、テーブルに身を乗り出して手を伸ばしていた。
ぴくりとも動かない腕は握りつぶされそうなほど強く握りしめられている。
……痛え。
骨が悲鳴をあげるが、新堂はおくびにも出さない。男性の柔和な表情の裏を読もうと、睨みつけていた。
しかし、
……瞬きひとつせず、か。
目の前まで拳が迫っても舞は避ける素振りすらしていなかった。軽く小突くつもりだったとはいえ、殴られるとわかっているなら少しは反応して欲しかった。
「……あんた、何者だ?」
新堂が聞く。
気が大きくなっている、と冷静に判断できていた。玄関で会った時の、しっぽを丸めるような力の差を今は感じなくなっていた。別に強くなった訳ではないけれど。
男性は1呼吸置いて鼻で笑う。イラッとした。見透かすような目が、無知を笑っている。そう感じられて仕方がなかった。
「俺はそいつの保護者だよ」
「違うけど」
「……」
「……」
男の言葉は舞によって即座に否定される。決め台詞を流されて、流石にちょっと可哀想に思えていた。
「……保護者、なんですね?」
「ちがいますー。どちらかと言えばこっちが保護者ですぅ!」
「あーもーうるせぇ。これでも咥えてちょっと黙ってろ」
話が進まない気配に、文句を垂れる舞の口にシーシャの吸い口をねじ込む。金属製の吸い口が歯に当たらないよう小さな唇を前に突き出した舞は、素直に受け入れると不貞腐れたようにソファーに深く腰掛けていた。
ようやく落ち着いて話が出来る、と新堂は軽く咳払いをして、
「大変でしょう?」
「……それには全面的に同意するが第一声がそれでいいのか?」
男性は腕を掴んでいた手を離し、またソファーに戻るなり、シーシャを1口、溺れるほどの煙を吐いていた。
手慣れてるなぁと感心しながら、新堂も1口吸う。煙が口に入ってからあっと気付くが既に遅く、バニラのような甘い香りが鼻を抜けていた。
……あれ?
動く。指が、腕が、身体が動く。奥にも横にもやや広くなった視界は揺れる煙の粒子すら捕らえるようで、舌の上を転がる香りの繊細さが心を豊かにする。
「面白いだろ、それ」
男が言う。確かに面白いと新堂は頷いていた。
決して主張せず、しかし全身を包み込むような多幸感が降ってくる。これに比べればいつも吸っている煙草なんて掃き溜めの煮込みを啜るようなものだった。
だから、
「これ、合法ですか?」
前職の職務上、何度か麻薬に触れる機会があった。依存症患者の話を聞き、その体験を生々しく語られたこともある。しかしそのどれもこれには敵わないように思えていた。
これは売れる。が、売っていいものかは別だ。とんでもない副作用と依存性があっても不思議ではない。
頭の冷静な部分が待ったをかける。でもあと1口だけならセーフかも、と吸い口から煙を摂取する。
はぁ……。
間髪入れずの2口目は、変わらず心に突き刺さる。会社とか仕事とかこの世の全てがどうでもよくなって、何も無い大海原に背を浮かせている気分だった。
恍惚とした表情を浮かべる新堂に、してやったりという顔をした男性が言う。
「違法じゃないぜ」
「……まじかぁ」
積み上げてきたキャリアが崩れていく音を背景に、ソファーに倒れ込む。
バレたらどうなるか、考えるまでもない。グレーゾーンを白と認めてくれるほど社会は優しくなかった。




