巨漢
「よう」
入ってきた男性は紙袋をさげて、空いた片方の手を掲げていた。
中肉中背、若しくは若干の痩せ型。そんな印象を抱く男性は夏を先取りしたのか半袖に薄い生地のパンツを履いている。涼しげというより寒そうな格好に、
「夏男じゃん」
「開口一番馬鹿呼ばわりかよ」
「間違えた。馬鹿だったわ」
ろくに訂正になっていない言葉の後に、舞はいらっしゃいと手を振る。
男性はん、とだけ返し部屋に上がる。そして舞の隣のバッグの上に紙袋を置くとそのままクローゼットへと向かっていた。
ガサゴソと漁る音が鳴っても家主は眉ひとつ動かさない。監視する訳でも無くただパイプからひたすらにニコチンを摂取することを心掛けていた。
数分もせずに男性が戻ってくる。手にはホースの着いた大きなフラスコのようなものを持っていた。
水タバコだった。男性はそれをテーブルの上に置くと、目隠しされているコンロへと向かっていた。
布とキッチンの間に身体を滑らせ、壁面に吊り下げてある網を五徳の上に乗せる。近くにある陶器のシュガーポットから大きめの角砂糖のような真っ黒な炭をつまみ、
「何個焼く?」
「私もー」
「俺も」
「3ね」
ひょいひょいと網に乗せ、コンロのつまみを捻る。
チチチとスパーク音が鳴り、青白い炎が立つ。その時、舞があっ、と顔を上げて、
「ごめん、もう1個追加で」
「もう1個?」
男性は眉を上げて聞き直していた。
それに答えたのはもう1人の男性で、彼はテーブルの下にあった冷蔵庫から缶を取り出しながら、
「1人増えるんだとよ」
プルタブを持ち上げる。炭酸の抜ける、気持ちの良い音を鳴り響かせて、1口あおっていた。
「聞いてないんだけど」
「もう聞いた」
「もう言った」
ソファーでくつろぐ2人が口を合わせて言う。
コンロに向き合う男性は不満を顕にしていたが、口を閉じて追加の炭を投げ入れる。等間隔に三角形を作る炭の真ん中を、カラカラと乾いた音が響いていた。
ピーンポーン。
指定された住所、マンションの一室の扉の前に立つ人の姿があった。
新堂である。
手には迷いの末買った2Lのお茶と缶ビールが6本、そして少しの乾き物が入った紙袋を持っていた。
マンションはこじんまりとしていて、3階建て。1フロアに4部屋しかなく、目的の扉は1階にあった。
夕暮れから闇夜まで時間が無い春の日、買い物を済ませると辺りはすっかり暗くなっていた。具体的な集合時間はなかったとしても出遅れた感じに焦燥感が胸を炙る。
2度ほど部屋番号を確認してインターフォンを押す。返事のない時間がいたたまれなくて新堂は足を彷徨わせる。
ガチャ。
「舞、来た――」
新堂の台詞が途中で止まる。開いた口はマーライオンのように閉じることを忘れていた。
扉の先にあったのはまた扉だった。否、正確には扉と見間違えるほど硬そうな胸板だった。
濃霧のように濃い煙を背負い、見上げるほど高く大木を思わせるほど、どこそこ太い身体。新堂が視線をあげると黒人を彷彿とさせる肌に引き締まった顔つきがあった。
「間違えました、失礼します」
「まぁ待て」
自分でも驚くほど冷静な声で頭を下げ、そそくさと退散しようとした所をワイシャツの襟を捕まれ静止させられる。
……あぁ、儚い人生だったなぁ。
振り払えるとは到底思えず、すぐさま生きることを諦めていた。暗くてもハッキリと見える、首筋から手首までびっしりと描かれたネイティブ柄の模様がトドメだった。
顎に触れる拳が硬い。何人か殺している手だ、間違いない。
不思議と恐怖は感じず、もはや恐怖どころではなかったのだろうが、新堂はこれからやる気の男性へと目を向けていた。
……でけぇ。
とにかくでかい。縦にも横にも。比べるならダンプカーと軽自動車だ。相手が指1本でも勝てる未来が見えない。
これからどんな殺され方をされるのだろうか。殴打か、絞め技か。それともコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるのか。悲観的な想像が頭の中をぐるぐると駆け回っていると、掴んでいた手が解かれていた。
……助かった?
無意識に止まっていた心臓が鼓動を再開する。急に汗が吹き出して過呼吸気味に荒々しく肺を動かしていた。
膝が笑う。砕けそうになる腰へ力を入れていると、
「舞に用なんだろ、入れや」
それだけ言い残して巨漢の彼は部屋の中に戻っていった。
誰もいなくなった扉がひとりでに閉まる。残滓のように漏れ出た煙が薄くなる様を眺めながら新堂は、
……はぁ。
彼が何者なのか。中で何が行われているのか。そもそも舞とどういう関係なのか。何1つ分からないから扉を開ける腕が重く感じていた。
このまま帰るという選択もあった。急用が出来たからと顔だけ見せて荷物を置いていってもいい。高々数千円程度の買い物なら痛手にはならない。
しかし、嫌だ嫌だと思ってもドアノブに手が伸びていた。なぜなら、
世間って意外と狭いんだよなぁ……。
ひょんなことからまたあの巨漢に出会うかもしれない。舞と繋がりがある以上、その可能性はグンと跳ね上がる。そのとき相手は覚えていないかもしれないし、覚えているかもしれない。いつか来るかもしれないその時に悪印象を持たれることが、今この場で何よりも恐ろしかった。




