一方、黒髪の男とその部下たちは
「殿下、いまのはもしや……」
長年フローリアン殿下の側近を務めているユリアンは、続く『レンオアム公爵令嬢ではありませんか?』という言葉を口に出すことは控え、複雑な心情とともに沈黙した。
突如牢の中が激しく震え、目の前が発光した。その眩しさで見失ってしまったが、この天井に大穴をあけたのは拘束されていた女性に違いない。いまだに振動の余韻で瓦礫を落とすその大穴を見つめて、薄茶の前髪を鬱陶しそうにかきあげる。
普段のユリアンは礼儀正しく、滅多なことでは所作が乱れることはない。このような仕草がでることはまれだ。しばし逡巡したのち、逃走した人物について確認することを選んだのであろう。
「ご令嬢は生きておられたのでしょうか?」
薄茶の髪を襟足でひとつに括った男が、黒髪で緑目の美丈夫に名前をふせて問いかける。流石に誰が聞いているやもしれない場所で、レンオアムの名を口に出すことは憚られたのだ。
ユリアンの母親はフローリアン殿下の乳母であったので、幼い頃は母を取られたような気持ちでいた。しかし十二の歳より側仕えを始めると、三つ年下の皇子が自制心の強い甘え下手だと知る。皇帝の第一子皇子であり側妃との子であるが故に、警戒心が強く慎重で、しかし勤勉で何事にも一途な努力家であることに心服しているのだ。
たが、それ以上にレンオアム公爵家には、畏敬の念を抱いてしまう。
「いや、本人であるはずがない。彼女は半年前に亡くなった」
そういうことになっているのだ。フローリアンは軽く頭を振り、先程の光景を否定した。葬儀を終え動かぬ体を納めた棺は、自分の目の前で封じられたのだから間違いはない。
彼女をツッカーカンドル家の霊廟には安置できないからと、陛下によって聖地とも呼ばれる森に眠らされた。
帝国としてはあれ以上妖精の怒りを買うわけにいかず、埋葬した場所も皇帝が秘匿している。そもそも彼女の正体は限られた者しか知らないのだから、秘密が漏えいしたとは思えない。
「ですが、それにしてはあまりにも……」
「似すぎていたか?」
「ええ、本人としか言えないほどには」
ここ数年、王城ではよくあの姿が見られていた。宝石に例えられたあの色合いを持つ者が、他にもいるとは思えない。それにこの大穴があいた理由は、彼女であるならばすべて説明がつくではないか。ユリアンはそう考えるが、他の者はそうはいかないだろう。
王族以外は彼女をレンオアム公爵家の者と認識していたが、それは彼女を指す呼び名のほんの一部でしかないのだから。
「……モーリッツ、拘束した者らに尋問を。ここに運んだ者がわかったら連れて来い」
僅かなあいだ思考すると、フローリアンは部下に指示を出す。口では否定していても、あの姿を見てしまっては動揺するのも仕方のないことだ。
「承知いたしました」
ひときわ背の高い男が一礼をして部屋から出る。さらに地下を捜索しているダフィットらに合流するつもりなのだろう。
この貴族の館はすでに半壊し、ここにいた者は家主も使用人も関係なく、数日中にすべからく命を失うことになるだろう。この部屋に入った者だけは、多少生き存えるかも知れないが、それは僅かな差でしかない。『関わった者には死を』その命で動いている限り、例外はないのだから。
下位とはいえ三名の宮廷魔術師が行方をくらませ、その遺体はすでにこの屋敷で発見されているのだ。同時に見つけた六名の男女もすでに事切れていた。彼らは平民だったが、おそらく魔力の強い者が拐われたのだろう。
両目と心臓が抜かれた遺体は、おぞましい儀式の供物として使われた残りで、数ある牢の片隅に無造作に打ち捨てられていた。
眼球は妖精を避けるため、魔術師の心臓は彼らの妖精を捕らえるために使われ、その妖精は彼女を拘束するために使われた。そう考えて間違いはないだろう。
ユリアンには枷から解き放たれた竜が天井を突き破り、咆哮をあげて飛び立ったとしか思えなかった。そしてそれは帝国の威光に影をさすことになりはしまいか。なぜなら彼女は、妖精に危害を加える者に容赦がないのだから。
「お前が魔術師たちを攫い、地下に繋いだのか。誰の指示だ?」
モーリッツが拘束し引きずってきた男は、ボロボロのローブを纏い血みどろで虚ろな目を殿下へ向けています。
「ぎゃははははは。バカな女のつまらん依頼を受ければ、渡された死体には僅かばかりだが竜化の証があった。ありゃあ有名な神竜サマだろう? 人の姿をしてるなんて、そりゃあ誰も棲家を見つけられないわけだ。そんな貴重な素体を、くだらない理由で台無しにするようなヤツになんぞにくれてやるものか」
「長々と囀っていないで聞いたことだけ答えろ」
殿下の苛つきが限界を超える前に、素直に話せば良いものを。愚かな男は神竜様の秘密を知ったようですが、それは命の灯火を自ら吹き消す行為に他なりません。
「女は血を欲しがっていたが、刃物は一切とおらなかったようでワシに依頼してきた。あれにはまだまだ使い道がある。竜体に変化するきっかけもわからんのだ。中身を入れた動作確認は明日行う予定だったのに、それをフイにしおって! 暴れんように繋いでおいたのに、みすみす逃すとは惜しいことを。枷無きいまは誰の手にも収まらんだろうよ」
「中身と言ったな。何を入れた? 彼女が戻ることはないはずだ」
「そんなものは知らん。招魂の儀で呼び寄せ、定着したのは今日だからな。何が中に入っているのか、明日から解析する予定だったのに」
男は歯ぎしりをして悔しがりますが、ろくな情報を持っていないようです。
「使えんな、これは用済みだ。どちらにせよ、神竜が目覚めたのならば貴様らを許すことはない。資料の回収が済み次第、一度帰還する」
フローリアン殿下は踵を返し部屋を出ていきました。そして残された男は命乞いをする間もなく、あっさりと頭を落とされたのです。
「はぁ。神竜様のお体に得体のしれない者が入り込み、行方が知れないとは」
フローリアン殿下の御心がようやく落ち着いたと思ったのに。モロダーの女狐め。近いうちに必ず化けの皮を剥いでやりますが、しつこくフローリアン様の妻の座を諦めていないとみえますね。
彼女の血を必要としたというなら、まじないに使用するためでしょう。そしておそらく神竜様だとは気づいてはいないでしょうね。
ルイーザ・モロダー。あの女はモロダー侯爵家の長女でありながら、適齢期を過ぎても婚姻を結ばず、いまだ殿下にまとわりつく愚か者です。いくら望んで手管を尽くしても、殿下の御心を手中に収めることができたのはただひとりのみ。ですがそのお方も失われてしまいました。
ですがその想いは、たとえ熾火になったとしても薪を焚べればすぐにまた燃え上がるのです。どんなに関わらないようにと動いたとしても、フローリアン様は彼女を忘れることはないでしょう。あのように動く姿を目にしたのですから、なおのことでしょうね。
妖精姫はあのようなボロ切れを纏っていても、帝都にいたときと変わらずお美しかったです。そして一流の職人が作った美しい仮面のような顔には、苦痛のような表情が浮かんでいました。
彼女が原因で叔父である皇弟殿下を喪ったとはいえ、フローリアン殿下もそう思ったことでしょう。あの方が神竜様だと明かされたとき、私も公爵家一家の美貌に納得したものです。
彼らはみな緑色の髪と赤い目を持ち、アレクサンドライトのようだと、もてはやされていました。母親は宝石姫、娘は妖精姫と呼ばれて、誰も彼もがその瞳に映ろうと必死でしたが、それは我が主たるフローリアン殿下も同様でしたね。
「彼女の棺を確認するために、殿下は帝都へと急ぎ帰ったのでしょう」
貴族たちは、この国から神竜様が去ったとは思いもしないでしょう。交流のない一貴族の美しかった娘が亡くなっただけと、いつまで誤魔化し続けられるのでしょうか。
神竜様が目覚めたのならば喜ばしいことですが、あのような目にあってなお、我が国にお戻りくださるのか。
ユリアンは、思いを断ち切るかのように大穴から目を背けた。
皇太子であるフローリアン・ツッカーカンドルは、八歳でレンオアム公爵令嬢に初恋を捧げ、十六歳のときは彼女を婚約者に望んだ。それまでも陛下に仄めかしてはいたのだが、やんわりと退けられてしまう。婚約について彼女の両親にも夜会の度に訴えかけたが、適当にあしらわれ続けた。
そしてフローリアンが十八歳で皇太子となったとき、両親である皇帝とその側妃にレンオアム公爵家の実態を明かされた。領地を持たず政治にもかかわらない、ろくに社交もしない公爵家は、王家の密偵ではないかと考えたこともあったが、まさか国を護る神竜が人の姿をしているとは思ってもいなかったのだ。
そしてようやく妖精姫と呼ばれた彼女の本名を知らないことに気づく。彼女の真名は、皇帝である父ですら教えられていなかったのだ。
彼女の正体を知るまでの十年という短くない期間で、フローリアンはすっかり初恋を拗らせていた。
彼女の両親や兄、そして妹はすべて同一人物で、神竜であり人ですらなかった。思い返せば、幼い頃より公爵夫妻がともに公式の場へ現れたことがないのに、皇帝である父が言及したことはなかった。その不自然さを疑問に思うことなく、自分を軽くあしらう公爵夫妻に、不敬だと苦言を呈したこともあったが、あれも彼女本人だったと知れば、恥ずかしさに顔を合わせることをやめた。
それ以来、二十三歳になった現在まで妃を娶ることもなく、いまだに彼女への想いを拗らせたままなのである。
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今回の登場人物をあっさりと
フローリアン・ツッカーカンドル 皇太子
23歳 黒髪短髪 緑目 美丈夫
ユリアン・ライトナー 側近
26歳 薄い茶髪 優男
モーリッツ・フーバー 近衛騎士 護衛
23歳 大男
ダフィット・グルーガー 宮廷魔術師 25歳