19温泉宿1 白蓮視点
朝、俺は寒さで身体がブルっと震え、慣れぬ寝台の上で目覚めた。燈実が毛布と分厚い布団を用意してくれたが、王都では感じたことのない寒さだった。そのまま毛布を体に巻きつけ、同じ部屋にいる愛らしい寝顔を覗き見る。
桜桃のような口が半開きになり、すうすうと寝息を立てていた。昨晩は眠るのが遅くなったのでもう少しゆっくり寝させてやりたい。
そっと透き通るような頬に触れると氷のように冷たかった。俺は寝台の毛布を剥ぎ取ると
……長椅子で眠る明渓にかけた。
そう、長椅子で寝る、だ。
焼け残った部屋は六部屋。一階の二部屋を燈実夫妻。二階の奥が朱亞親子と萌、手前の部屋を孫庸がすでに使っていた。だから燈実は三階奥を俺に、手前の部屋を明渓にと用意してくれた。
驛文は長屋の隣にある厨で普段から寝起きしているらしい。
俺は可愛い寝顔を見ながら昨晩のやりとりを思い出す。
………
「いや、春蕾、それは……」
「分かっております。確かに護衛が明渓では不安でしょうが私は件の建物で見張りをする必要があります。見たところ武道の素人ばかり。明渓でも充分に役に立ちます」
昨晩、部屋割りが決まった俺に、春蕾が明渓を護衛として付けると言ってきた。護衛するからには同室で寝泊まりする必要がある。襟足を掴まれ俺の前に突き出された明渓の顔にははっきりと『嫌だ』と書かれていた。
「……役に立つ、以前に問題があるのではないか？ お前、明渓の兄のような存在なのだろう。兄として他に心配することはないのか」
「まったく。私は兄ではありませんし、こいつが誰かとどうにかなってくれれば縁談の話は消え晴れて自由の身となります。さっ、どうぞ、喜んで差し出しまっ……痛っ！」
明渓の肘鉄が容赦なく鳩尾に食い込んだ。護衛として充分通じる威力だ。
そして差し出されたからといって、喜んで受け取るわけにはいかない。そんなことをすれば、これまで築いてきた信頼が無にきしてしまう。……あるよな？ 確固とした信頼関係。
「とにかく、お気に召さなくても部屋の扉の前に置物のように座らせてください。本人にも伝えておりますから」
伽藍でも思ったが、従兄弟達の明渓に対する態度は何とも辛辣なものだ。こんなに愛らしいのに、皆が嫁にしたくないと押し付け合うなど理解に苦しむ。俺などそっくりな置物を作りたいぐらいなのに。
しかし、護衛なしで眠らせる訳にいかないという春蕾の気持ちも分からないでない。それが彼の仕事でもあるのだ。
と、いうことがあり、明渓は扉の前に移動した長椅子で猫のように丸くなって眠っている。
「可愛い……」
いや、本気でこれ置物にしたい。木彫りで作ってみようか。マジマジと見つめていると、長い睫毛がピクリと動き扁桃のような目がゆっくりと開いた――かと思うと無言で拳が飛んできた。尻餅をつきながら紙一重でなんとか交わす。
「お、おいっ」
「あっ、白蓮様でしたか、申し訳ありません。不埒な輩が忍び込んできたかと思いました」
しれっと眉ひとつ動かさず言ってのける。しかも明らかに棒読みだ。
「いや、今のは俺と分かってやっただろう。しっかり目が合ったではないか」
「気のせいです」
ンな訳ないだろ。でも、とりあえず昨晩大人しくしていた俺の判断は正しかったようだ。もう一言ぐらい言ってやろうかと思っていると、部屋の扉が叩かれた。
長椅子をどかし、扉を開けると朝食を持った萌がいた。二人分をこちらに運んで貰うように頼むと、あらあら、と含み笑いをしながら持ってきてくれた。何やら誤解をしているようだが、弁解のしようがないので放っておこう。
俺と明渓は、部屋に置かれた小さな卓に向き合い、朝日の中一緒に朝食を食べ始める。
「まるで夫婦のようではないか」
なんだこの幸せな光景。思わず溢れた本音に、明渓が熱物を喉に詰まらせる。大丈夫かと背中を撫でようとしたら、器用に椅子ごと退かれた。どうやった？
「主と護衛です」
「今のところは」
ジロリと睨んでくる目にゾクっとして頬が緩む。そんな俺を今度は虫ケラを見るよつな目で見てくるが、それも悪くない。
「それにしても変わった宿ですね。刃物持ち込み禁止だなんて」
「燈実殿が刃物に対して極端な恐怖心を持っているようだな。なんでも幼い時に盗人に遭遇し刃物を突きつけられたからだとか」
高所恐怖症や弊所恐怖症など特定の物を怖がる人間は少なくないし、それが幼い時の心理的恐怖によるのも珍しくない。しかし宿に刃物を持ち込ませないとは、なかなか極端な話だ。
「厨は離れ――あの遺体があった長屋の横にあるのですよね」
「厨に刃物は欠かせないからな。宿内に厨がないとは、なかなかの徹底ぶりだ」
「はい、白蓮様の医具も厨に置いてあるのですよね」
俺の医具も宿に持ち込めなかった。必要になればすぐ返してくれるそうなので別段困ってはいない。刃物以外の薬は問題なく持ち込めたし。薬は使い方により毒にもなるのでこちらは手元に置く必要がある。
「火元は一階の燈実達の部屋だったよな」
「はい、風向きが功を奏し半焼で済んだそうですね」
「客はいなかったのか？」
「いましたが、皆建物の右側、私達が今いる方に泊まっていたそうです。なんでもこちら側の方が眺めが良いそうですよ」
そうなのか、と食事の残りを口に詰め込み背丈ほどの窓を開ける。外にはそれなりに広い露台があり出てみることにする。部屋それぞれに独立してついており、隣の露台までは意外と近い。明渓が本当に武官だったらこちらからの侵入も警戒していただろう。
目線を反対にやると、少し離れたところに湯気が立ち上る小川があった。
「明渓、不思議な川があるぞ」
振り返り呼ぶと、明渓は扉の前で女中からお茶のお代わりを受け取っていた。いつの間にか持って来ていたようだ。
「何があるのですか？」
目を輝かせながら小走りで近づいてくる。こんな可愛い姿を何故あの従兄弟達は疎ましく思うのだろう。俺は身体を欄干によせ、場所を開ける。明渓は欄干から身を乗り出さんばかりに湯気の出る小川を眺める。
「あれは……温泉ですか？」
「はい、源泉になります」
答えたのは背後に立つ女中。確か萌、だったはず。
「この辺りは温泉が沢山湧きます。硫黄の独特の匂いがしますでしょう。地元ではちょっと有名な湯治場なのですよ。あっ、お客様、簪をお持ちなら布で包んでください。湯がかかると変色しますから」
「分かりました。あの小川を辿ったところにある小さな池のようなものが源泉ですか？ 囲いがしてありますね」
明渓が指さす先には三方を竹垣に囲われた小さな池がある。池自体は小さいが、絶え間なく小川に湯が流れているので湧いている量は多そうだ。硫黄の匂いがここまで漂ってくる。
「はい。ただ、濃度が濃く温度も高いです。だから、小川を引いてこの林の奥にある泉の水と混ぜて入浴して頂いています」
「あそこに直接入浴はできないのですか？」
おい、キラキラした目で何を聞く。上から丸見えだぞ。
「足湯としてご利用いただけます。でも絶対に守って頂きたいことが二つ。長時間湯に浸かるのはおやめください。三百数えたら一度湯から出て肌に炎症がないか確認してください。数回なら繰り返して頂いても問題ありません。それから目には絶対にかからないようにご注意ください」
なるほど。酸が強いのだな。明渓の透明な肌はすぐ赤くなりそうで心配だ。でも、絶対入るというだろう。保湿剤、持ってきてたかな。そんなことを考えていると案の定明渓が女中に向かって問いかけた。
「あの、質問が」
「何ですか？」
「飲んでもいいですか？」
「…………」
何故だ。何故口に入れようとする。幼子の雨林と変わらないではないか。
「そ、そうですね。源泉を飲まれるのはやめた方が良い気がします。もし飲みたいのでしたら薄めてはいかがでしょうか」
「分かりました。そうします」
飲むんだ。いいのか？ 俺の知識で判断はつかぬが嘔吐剤と胃薬も用意しておこう。
楽しそうに雪の積もった欄干に手を置き身を乗り出す明渓を室内に連れ戻すと、今度は驛文が訪ねてきた。服の所々にまだ溶けていない雪がついており、青い顔をしている。嫌な予感がする。
「お客様、雪で道が塞がりました。暫く下山は難しいと思われます」
俺と明渓は顔を見合わせた。どうやらこの宿は孤立したようだ。
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