15幕間
「はあー」
明渓は思いっきり手足を伸ばした。鈍い月明かりの下で華奢な四肢が白く浮かびあがる。
場所は明渓の実家の敷地内にある温泉だ。実家は藤右衛門の鍛冶場のすぐ近くにある。田舎の私有地は広い。その敷地は家屋だけでなく、裏山にまで及ぶ。その裏山に小さな温泉が湧き出ているのだ。
「明日にはもう帰るのね」
不揃いな石を積み重ね作られた簡素な湯船につかりながら、寂しそうに呟くのは母だ。娘に負けず劣らずの透き通るような肌を湯に浸している。
青周と白蓮の計らいで今夜は特別に外泊の許可がでた。実家の周りには、一応武官が配置され、父以外の男は使用人であろうとも出入り不可とされている。勿論、妃嬪としての立場を取り繕うためだ。
「お母様なら伽藍堂で一緒に寝泊まりできたのに」
不満気に唇を尖らす。声が少し幼いのは久々の親元で気が抜けているからだ。石の上に腕を重ね、その上に顎をちょこんと乗せて夜空を見上げる。火照った体に夜風が気持ちよい。
「ちょっと急ぎの仕事が入ったの。これでも徹夜で仕上げたのよ」
振り返って見る母の目の下には、確かに薄くクマができている。
「それにしても、伽藍では随分自由に振る舞っていたようね。あなたって子は妃嬪になっても変わらないのだから」
「頼まれたことをしただけよ」
好き好んで盗人を捕まえ、遺産を見つけたわけではない。寧ろ感謝して欲しいぐらいだ。
「後宮でもいろいろ首を突っ込んでいると聞いたわ」
「巻き込まれただけよ」
「……どうしてこんな風に育ったのかしら」
日常生活もままならぬほど剣を打ち続ける母から生まれた割には、常識的だと明渓は思う。
上出来の部類ではないだろうか。
従兄弟達の明渓への辛辣な態度に、青周や白蓮は何処か安堵したような表情を浮かべた。二人とも今宵は自室でゆっくり寝ているはずだ。久々に。
「お母様、本当に子空を十九代目にするの?」
「そうね、明渓は知らないでしょうけれど、彼は今も時折鍛冶場に顔を出して、最近では助手のようなこともしているのよ。でも、お父様は春蕾を気に入っているでしょう」
「昔からあの二人仲が良いものね。春蕾兄の家の事情もあるし」
「だから、藤右衛門を子空に譲り、春蕾を入婿にと思いもするのだけれど、それでは春蕾に利がないでしょう?」
「……私の結婚は、相手にそんなに不利益をもたらすものなの?」
今日一日、何度も思った疑問を口にする。すると母はケラケラと笑い始めた。
「だってあなた料理も裁縫もできないじゃない。ほっとけばずっと本を読んでいるし、外に出たと思ったら武官相手に木刀を振り回すし。そんな妻を希望する男がいると思うの?」
「……ぐっ」
(言い返せない。自分が男でもそんな女嫌だ)
母は、拗ねたように夜空を見上げる娘の隣にくると同じように腕を重ね顎を乗せた。しかし、目線は夜空でなく娘に向けられている。
「それなのに、随分目をかけられたようね。私に似た容姿に感謝するのよ」
揶揄うように目を細め明渓を覗きこむ。ふっくらとした唇は意味あり気に弧を描いている。
「あれは貴人の気まぐれよ。お母様に似た容姿は多分関係ないわ」
あの貴人達は、着飾らず帝に興味を抱かず、本を読み、時折事件を解決する自分が目新しいだけだ。見慣れれば、そのうち飽きて相応しい人に目がいく。明渓はそう思うことにしている。少なくとも容姿は関係ない。
「そうかしら? あなたわざと気づかないふりをしていない?」
「何のこと? それに私は帝の妃嬪よ」
「ふーん」
母はそう言って明渓の腕を持ち上げた。水が珠のように弾く瑞々しい肌だ。
「事件に巻き込まれ、魅音や林杏が地元に帰ってきたのは知っているわ。あなたには帝が別の侍女を手配したと聞いているけれど、上手くいってるの?」
(そんな設定になっていたんだ)
考えてみれば同郷の二人が後宮を出たことは嫌でも両親の耳に入る。東宮が気を利かしてくれたようだ。
「大丈夫よ」
「確かに、梨珍さんは悪い人ではなさそうだけれど」
「ええ。良く気の利く良い侍女だわ」
「ふーん、でも、だったらどうしてあなたの腕に産毛が生えているのかしら」
「えっ?」
母に持ち上げられた腕を見る。みっともないほどではない。月明かりの下で顔をぐっと近づけ、目を細めようやくわかる程度だ。
「妃嬪の腕ではないわ」
「だって帝のお通りないもん」
もたれた腕を捻られ、手のひらを上にさせられる。
「剣だこも相変わらずね」
「運動不足解消に……」
明渓そっくりの扁桃のような目は、なんでも見透すかのように澄んでいる。
「鍛冶場にきた時、梨珍さんと言っていたわ」
「……」
「話し方も主と侍女のものではなかった」
「…………」
「あなた、妃嬪を首になったでしょう。今後宮で何をしているの?白状しなさい」
(……これは、誤魔化せない)
母のあの目は何でも見抜く。黙っておたまじゃくしを大量に池で孵化させようとした時も見つかった。試作品の剣を勝手に持ち出した時も気づかれた。お仕置きで閉じ込められた蔵を抜け出したら、目の前に母がいた。
(言うしかない)
明渓は覚悟を決めて、ポツポツと言葉を選びながら本当のことを話始めた。あくまでも巻き込まれただけだと、強調しながら皇后の事件、妃嬪でなくなったこと、そして母が何より驚いたのは、東宮の侍女として公主達の子守りをしていることだ。
目を丸くしながら、心配そうに眉を下げる。
「大丈夫なの? あなたが公主様を預かっているなんて、命が幾つあっても足りないわ」
母が心配したのは公主達だった。
「さっきからお母様が一番酷いと思う」
「明渓、分かっている? 公主様は木登りしないし、池に飛び込まない、蛇を手づかみしないわよ」
明渓はぷぅ、と膨れる。口煩いのは魅音以上だ。到底まともな母とは思えないのに、小言だけはまともだから反抗心が湧く。
「大丈夫よ、大体、これでも結構頑張っているのよ。公主様達は懐いてくれているし、皇族の方とも仲良くしているわ」
「……そうね、それについても聞かなきゃいけないわね。青周様と白蓮様、お二人とも相当物好きな方のようね」
明渓は風呂に浸かりながら冷や汗が出た。話題を振ってはいけないところに振ってしまった。
(ここは黙秘だ)
そっぽを向いて、鼻まで湯に浸かりぷくぷくとあぶくを立てる。母はそんな娘をじっとりと半目で睨む。
「お父様は可愛い娘を気紛れで摘まれては、と随分心配していたわ。あなたもお二人の気持ちを本気に受け止めていないけれどそれでいいのかしら?」
「相手はこの国一の尊い血を引く方よ。私には分不相応だわ。大体、こういう展開は高貴な血筋同士の間か、もしくは不憫な境遇や特異な環境で育った女主人公に訪れるもので、私のように普通に育った人間には関係ないことよ」
母が、あなたが普通? と言いたげな目で見てくるのは気のせいにしておく。
「それは、本の話でしょう。世の中の大半は普通に生きている人ばかりなのだから、そこに劇的な展開があっても不思議はないわ。でも、本当にそう思うなら直ぐに帰ってきなさい。確かに人の気持ちは移ろうものだけれど、真剣な眼差しを受け止めないのはあまりに不誠実よ」
母の人を見る目は鋭い。日々物言わぬ金属と向き合っているからだろうか、その本質を見る目は確かだった。母はやれやれといった感じに大きな溜息をついた。
「青周様とお話したわ」
「!! いつの間に」
そういえば、あのあと人形が出てくる所も見たいと言って、母だけあの場に残ったのを思い出す。その間、明渓は実家に泊まる許可が出たので、部屋で荷造りをしていた。
「剣と酒を一緒に楽しんでいるそうね。随分お優しい目をされてあなたのことを話されていたわ」
「たまたまよ」
人を飲兵衛のように言わないで欲しい。
「白蓮様には、あなたは時間があれば一日中本ばかり読んで返事もしない、とお伝えしたわ」
「さぞがっかりしたことでしょう」
「『知っている。自分は一日中その姿を見ていられる』と仰ったわ」
どこから見ているのだろうかと、湯の中で今度は鳥肌が立つ。
気まずい空気が流れる。明渓とて実は薄々気付いている。あの二人の気持ちには向き合わなければならぬのでは、と。でも、向き合えば答えを出さねばならない。そして、どちらも選ばず、その兄である東宮のもとで本を読み漁るほど、分厚い顔の皮膚は残念ながら持ち合わせていない。要は、今の生活を手放したくないのだ。
だから、高貴な方の気まぐれ、いずれ心変わりする、と言い訳をしている。そして、早くそうなれば良いと思っている。そうしたら、心置きなく侍女を続けながら本を読める。
(それが一番……)
「どうしたの? 急に悲しそうな顔して」
「し、してないわよ!」
明渓は湯を掬い上げ、顔をバシャバシャと洗う。自分はいったいどんな顔をしていたのかと、気が気ではない。とにかく、話をはぐらかそうと矛先を母に向けることにした。
「……ねぇ、お母様。お母様は結婚にも子育てにも興味ないのにどうしてお父様に嫁いだの?」
「……あらあら、実の母に対して随分な言いようね。でも、そうね、どうしてかしら?」
首を捻る母がやはり一番酷いと思う。父に対しても。
今度は母が鼻まで湯に浸かる。
「藤右衛門をできればそれでよかったんじゃないの?」
「そうよ。剣を作って、仕上げた剣を見てお酒が飲めれば充分だった。なのに、お父様が言うの。お前が剣を打つ姿は一日見ていても飽きないし、酒を傾けながら剣を眺める姿は美しく誰にも見せたくないって。私が大事にしていること丸っと全て含めて、私の存在が愛おしいって」
「それで、お父様を好きになったの?」
「うーん」
「……お母様、そこは、『はい』でいいと思う」
母を溺愛する父が可哀想になってくる。
「ふふっ、だってそういうのとは少し違うの。この人にずっと側に居て欲しいって思ったのよね」
それは、好きとは違うのか、と明渓は首を捻る。側にいたい、といて欲しいは同意語のはずだ。それを見て母は濡れた手で明渓の頭をぐしゃりと撫でた。
「本にでてくる物語のような恋が全てではないのよ。あなたなりの形を見つけなさい。それをする気がないなら王都に帰らずこちらに残りなさい」
それは困る。まだまだ読んでいない本は沢山あるのだ。
「……精進いたします」
なんだか、外堀を埋められた気分がした。
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