8.宴
「明渓妃! 分かっていらっしゃいますか? これはまたとない機会ですよ」
朝から耳元で何度も同じ事を繰り返す魅音に、明渓は眉を顰める。
そんな様子を知ってか知らずか、いや、多分知った上で魅音は衣装箱から次々と服を出し並べていく。机の上には所狭しと簪、首飾り、耳飾り、長いつけ爪まで用意されていて、鏡の前にもありったけの化粧道具がずらり並ぶ。
年が明けたばかりのこの時期はすこぶる寒い。明渓としては、こんな日は布団から一歩も出ずに、寝転びながら本を読んでいたい。
でも、そうはいかないようだ。
入内から五ヶ月。今日は新参者の嬪達を集めて新年の宴が行われるらしい。出席する嬪は十五名。余興として、舞や二胡、唄を吟ずる事になっている。そう、なっていたのだ。
(やばい、忘れていた)
「まさか、忘れていませんよね」
少し先から明渓を睨む魅音の目が怖い。あまりにも怖すぎて、絶対に、忘れていたなんて言えない。ここは何とかして誤魔化さなくてはと握りしめた明渓の手に汗が滲む。
「勿論、問題ないわ。でも何をするかはお楽しみ、ということで……」
「お楽しみ、ですか」
作り笑いの明渓を魅音が疑わしそうに半目で睨む。背後に渦巻く何かが見える気がするが、気づかない事にしようと明渓は目を逸らす。
「ええ。あっ、魅音、少し練習したいから部屋から出てくれないかしら。衣装選びは任せるわ。でも化粧は自分でするから」
とりあえず、いや、かなり強引に魅音を部屋から押し出したあと、明渓は寝台の上で頭を抱えた。
(出し物とか必要?見せ物でもあるまいし)
帝はお年のせいか、最近は昔から馴染みの妃の所に向かうのがほとんどだ。
後宮に入ってから知った事だけれど、今集められているのは、政治的な理由で集められた妃嬪ばかりで、帝は時々つまみ食いはすれど、もう新たに親しい馴染みを作る気はないらしい。
その為、集められた妃嬪達は、実は帝の子共達の妃候補であるというのが暗黙の了解となっている。皇子達が自由に後宮に入る事はないが、時々後宮で開かれる宴に招かることがあり、それは妃嬪達の一大行事となっている。
そんな貴い方の諸事情はいったん置いといて、問題は今夜をどう切り抜けるかだ。明渓は手先が不器用だから琴や二胡は全く弾けない。唄も下手ではないが宴で披露できる代物ではない。
(となると、残るは舞。でも、演武しかできないなぁ)
人より秀でているのは、剣と弓と馬術となんとも男前な代物ばかりだ。息子がいなかった父は明渓が武術をするのを何故か喜んだ。母は眉を顰めていたが、父の手前表立って反対するような事もなかった。
(失敗しても目立つし、ならば、いっそ得手な事をした方がいいかもしれない)
明渓はそう思いいたると、奥に仕舞われた行李を引っ張り出してきた。
場所は後宮の中にある広間で行われた。外は雪がちらつき始めていたけれど、広間の中は十分に暖かい。むしろ妃嬪達の熱気で熱いくらいだ。皆これでもかと着飾り、頭には複数の簪、色鮮やかな衣装、むせ返る香の香り、厚く白く塗り固めた顔、顔、顔で溢れていた。
(帰ってもバレないんじゃない?)
そんな不届きな事が頭に浮かぶ。
明渓の衣装は色鮮やかな緑に赤と黄色で鳳凰の刺繍が施されている。櫛は三本用意されていたのから一本を選んだ。侍女達は不服そうだったが衣装を妥協したのだからと押し通した。化粧はいつものように、元の肌より暗めの白粉をはたき紅だけをのせた。
帝が中央に、息子達がその左右に座っている。それぞれの妃嬪がこれでもかと着飾った衣装で芸を見せていくのを、帝は時には興味深そうに、時には飽きた表情を覗かせながら眺めている。息子二人は興味があるのかないのか表情を崩さない。
狙いは東宮かと思っていたけれど、意外と皆の視線を集めていたのは次男の青周だった。
(確かに美丈夫だわ)
柳の眉にすっとした鼻筋、形のよい唇。切れ長の一重の目は少し無愛想にも見え冷たい印象を与えるが、そこが良いという嬪も多数いるだろう。髪はその上部だけを一つに布でまとめ残りは垂らしている。絹糸のような綺麗な黒髪に痩身な体型はとても武官には見えないが、この国有数の剣の使い手だ。
東宮は、意志の強そうな目が印象的な体格の良い武人だった。愛妻家で未だに妃は一人。この方がいづれこの国の頂に立つ。
宴は進み、唄やニ胡の音が絶え間なく響く。華やかな事この上ないと、明渓は必死に欠伸を噛み締める。それでも半分ぐらい意識が飛び始めた頃、魅音に肩を叩かれた。
魅音の目が怖い。よだれが垂れているかと、そっと袖口で口元を拭う。ちらりと周りを見回した時、青周と目が合い身体がビクッとなった。形の良い唇の端が僅かに上がっている気がしたが、明渓は気のせいだとやり過ごす事にする。
そろそろ順番のようなので、懐から巾着を出し、さらにその中から赤い紐を取り出す。紐は四つ、それぞれに七個の鈴が付いていて、それらを足首に付けていく。手首にもいつものように片手と口を使ってつけようとしたら、慌てた魅音によって鈴を奪われた。
明渓が舞台の上に立つと、それまで無表情だった東宮の目に興味の色が浮かんだ。
シャラン
四肢の鈴が鳴り響く。
カン
両手に持った模造刀を打ち鳴らす。
明渓は片足を静かに上げる。緑の布が宙を舞う。その下から赤い下服を履いた足が軽やかに宙を舞う。身体を捻り宙で一回転する。着地と同時に早い足捌きで広間を縫うように駆け抜ける。今度は前方に一回転。絶え間なく剣を動かし見えない敵を切り捌いていく。無骨な演武が、明渓の細く長い手足と、しなやかな肢体によって舞のような美しさに変わって行く。模造刀が反射させる光が、形の良い目に妖艶な翳りをもたらす。
帝だけでなく、その場にいた皆が思わず息を呑み、ぼーっとした表情で見入る。
(気持ちいい)
明渓は音楽と剣を振る音が一体となっていく瞬間が好きだった。後宮にきてから思い切り身体を動かす事がなかった。伸びた手足が空気を切る感覚、汗ばんできた身体。頭の中が真っ白になっていく。鳴り響く鈴の音の音律に身体が溶け込んで行く。
そして最後に後方に一回転し片膝を突く。右手の剣を頭上に、左手の剣を前に突き出した所で鈴の音はやんだ。
しんと鎮まりかえる広間に明渓の荒い息遣いだけがかすかに響く。どうしたのかと周りを見渡すと、前方の貴い三人が皆興味深げに自分を見る視線とぶつかった。明渓の顔からさっと血の気がひいた。
(しまった、やり過ぎた)




