1.始まりは長閑に
「ねぇ、ねぇ、何してるの?」
わざわざ椅子を出してきて鍋の中を覗き込んでくる陽紗を、明渓はひょいと抱えて床に降ろした。
「危ないので火に近づかないでくださいね」
優しく諭しながら鍋の中を軽くかき混ぜる。
今明渓がいるのは朱閣宮の台所だ。いろいろあった後、数ヶ月前から侍女として働いており、主に公主達のお世話をしている。
朱閣宮には他にも侍女がいるけれども、元妃嬪の明渓にまだ遠慮をしているのか掃除などは任されていない。家柄は彼女達の方が良いぐらいなので、雑用でも何でも命じてくれれば良いのに――と本人は思っている。
侍女達が明渓に遠慮する理由が、別の所にあることに気づいていないのは、本人だけだろう。
「これ食べるつもりなのか?」
振り返ると白衣を着た白蓮がいて、その腕には「せっかく集めたのに」と眉を八の字にして泣きそうになっている雨林がいる。
「食べませんよ」
箸で混ぜながら顔だけそちらに向ける。
「白蓮様、こちらは貴方様が来られるような場所ではございませんよ」
兄の宮の台所まで入って来ないでくれる?を丁寧に伝える。
「韋弦が香麗妃の検診をする時は必ず一緒に来るって言っただろう?来てみたら明渓が珍しく料理しているって聞いたから見に来たんだ」
元服の儀が終わり自分の宮を持てば、本来皇族としての業務に就くはずなのに、本人が医学を学ぶことを強く希望した為、再び医官として後宮で働いている。
幸い三人の兄がそれぞれ要職に就き、政は滞りなく進んでいるし、病弱の四男は期待されていない分自由だというのが、本人の見解だった。
白蓮は母が皇后だった為、後宮ではなく皇居で育った。元服と同時に第四皇子の名前は明かされていたが、その顔を知っているのは、元服の儀に出た一握りの高官と皇居で働く一部の人間だけだ。
そして、その中で、後宮に入ることができる者は片手の指の数程しかいない。だがら、今でも『僑月』の名で、後宮で医官として働くことができるらしい。
ついでに言うと、医官見習いから医官にいつの間にか昇格したようだ。
「食べないなら何のためにこんな物煮てるんだ?」
白蓮が見つめる先にあるのは鍋でぐつぐつ煮られているドングリだった。
「ドングリを侮ってはいけません」
明渓がぐっと箸を握りしめた。
「あれは私が陽紗様ぐらいの歳です」
明渓には従兄弟が二人いる。兄は三歳年上で剣術を教えてくれて、弟は五歳下の少し甘えん坊だ。
ある秋の日、三人で裏山に行き、袋一杯に詰めたドングリを両手で抱えて持って帰ってきた。その中から特に形の良い物を選び箱に入れて大事に大事に仕舞った。
あまりに大事にしまい過ぎた幼児はどこに仕舞ったか忘れてしまい、二ヶ月後ひょんな事からその箱を見つけ再び手にとった。だけど、箱の様子がなんだかおかしい。小さな振動が掌に伝わってくるのを不思議に思いながらも、嬉々として蓋を開け中を覗き込むと、そこにはドングリの中から出てきた
「無数に蠢く白い虫が………」
握りしめた手の中で、ピキっと箸にヒビが入る音がした。
「ですから、煮詰めて殺さなくてはいけないのです」
毒薬を作るような視線で鍋を見つめる明渓の口角は、何故か不気味に上がっている。白蓮は明渓の手から、ヒビの入った箸をそっと取り上げ新しい物を握らせた。
公主達が首飾りや指輪を作りたいと言うので、湯から取り出し、冷めたドングリに錐で穴を開け糸を通していく。
でも、これが意外と難しい。不器用な明渓にとってそれは至難の業で、切っ先がつるりと滑って小さく丸いドングリにはなかなか穴が開かない。
「痛い!」
「大丈夫か?」
錐が指先をかすめ、血が滲んでいる。掠り傷だと表情を崩さない明渓とは反対に白蓮は慌てて手を伸ばしその指を掴むと、
「……何をなさるおつもりですか?」
傷口に顔を近づける白蓮に冷たく言い放つ。
「傷口を……」
「まさか舐めようとなさったわけではございませんよね」
「……」
ピシャリと言い放つと、白蓮の手を振り払い懐紙で傷口を押さえる。そもそも傷口を舐めるという行為が衛生上正しいのかも疑わしい。いや、それ以前に侍女の指を舐めようと普通するだろうか。
白蓮は明渓の顔を見上げ、その凍りつくような冷たい視線に尻込みしながらも、どこか悦に入ったような表情を浮かべた。
何かを誤魔化すように、宙に浮かんだ所在無さげな手でドングリを摘みあげると、器用に錐で穴を次々と開けていく。
「器用ですね」
明渓が少し羨ましそうに呟くと、先程より穴が開くスピードが上がっていく。褒めた分だけ伸びる子のようなので、煽てこのまま全部やって貰おうかと不遜な考えが頭をよぎった。
「医局に戻らなくても良いのですか」
「あぁ、今日は香麗様の検診が最後の仕事だ」
それなら、全部して貰おうと白蓮の前にずずっとドングリを押しやる。
しかし、高貴な方に穴を開けさせ、ぼうっとするのは気が引けるので、お茶ぐらいは淹れようかと席を立った。
(お茶菓子は花林糖があったはず)
「今日は明渓に頼みがあるから雑用は免除してもらったんだ」
嬉しそうな声が背後から聞こえ、棚に伸ばした手が止まる。何故か背中に悪寒が走りぞくっと身震いがした。恐る恐る振り返るとニコッと笑う白蓮と目が合ってしまった。
「『暁華皇后の呪』を解明して欲しい。『七不思議』になる前に」
明渓は一目散に台所から逃げ出した。
あと二話連続投稿します




