3.少年
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思っていたよりすっかり遅くなってしまったと、医局の門を静かに開ける。
小柄な身体をさらに縮め、足音を立てないように気をつけながら階段を上がっていく。医局の階段のすぐ横にある自室の扉は古く開けるたびに軋む音が響く。出来るだけ音が鳴らないようにゆっくり扉を開けようとした時、大きな手に肩を掴まれた。
「僑月、どこに行っていたんだ」
ヒッと言う悲鳴を飲み込んで振り返ると、主治医でありお目付役でもある韋弦が仮の名を呼び立っていた。
僑月は本来の名をここでは使っていない。口調が命令調なのは誰かが聞いている可能性を考えての事だった。韋弦はそのまま僑月の肩を押し部屋の中に入って行く。三十路を少し過ぎた顔が険しく、かなり怒っているようだ。
「最近はすっかり具合もいいので、頼まれた所用の為少し出かけていただけだ」
何て事はない、大した事はない、という感じで答える。
二人だけになり、口調を変えた韋弦が眉間に皺を寄せて詰め寄る。
「お一人で行かれないでください。いつ発作が起こり、咳が止まらなくなるかも知れないのですよ」
「大丈夫だ」
うん、走らなければ大丈夫だった。だから大丈夫だ、と胸の内で言い訳をする。
「東宮からも私と一緒に行動する様に言われている筈です」
東宮、現皇帝の長子。今日の夜間外出は東宮からの依頼だった。
昔から身体が弱く、いつ死んでもおかしくないと言われた僑月をいつも気遣ってくれたのが東宮だった。
本を読み、玩具をくれ、体調が良い時は馬に乗せて山や川に連れて行ってくれた。
死ぬな、と言ってくれた。
しかし、東宮以外の者が僑月を見る目は無能な者に向けられる冷たい物だった。
それに耐えきれず、無理言って主治医である韋弦の元で医官見習いとして働いている。
最近は、身体も成長し夜中に咳が止まらないことも、息苦しくなる事も少なくなってきた。医官見習いとして働いていることが原因かは分からないが、最近では体力もついてきて剣術も習い始めた。
そんな自分に東宮は一つの頼み事をしてきた。
最近、後宮で大麻が出回っている、吸っている者を見つけて欲しい、という内容だった。
東宮が後宮に入る事は殆どない。おそらく宦官長あたりから話を聞いたのだろう。いや、医局長だろうか。
韋弦と一緒に行動するように言われていたが、どうしても一人でしたかった。
東宮に出来る所を見せ、認めて貰いたかったのだ。
でも実際は足がすくんでしまった。棒で殴ったのはいいがその後が続かない。
「くっくっっ、はっはは」
突然笑い出した僑月を韋弦が訝しげに見る。
「すまん、すまん。面白い物を思い出してな」
まだ笑い続ける。
「心配するな、怪我はない。苦しくもない。それから、明日大麻を吸っていた者の名を東宮に報告する」
その言葉に韋弦が目を丸くする。
「見つけたのですか?」
「ああ、しかし三人だけだ。まだいるはずだから暫くは泳がせておくだろうが」
何より入手経路がわからない。後宮に入る荷物は全て検閲が入る。それは荷だけではなく人に対してもだ。
もちろん調べる者も仲間の可能性はあるが、検閲はその日に無作為に選ばれた二人で行われるため、その可能性は少ないと考えるべきだろう。
僑月はそこまで話すと、まだ何か言いたげな韋弦を強引に追い出し扉を閉めた。
はぁ、とため息をつき寝台に身体を投げ出す。先程発作を起こしたばかりだ。今日はもう休んだ方がよいだろう。そう思うが、昂った気持ちはなかなか鎮まらない。
月明かりの下出会った妃嬪は明渓と名乗った。
気の強い侍女だとばかり思っていたら妃嬪だと言う。夜中に出歩き、男の急所など蹴り飛ばす女など今まで聞いた事も見た事もない。
星が見たいと言う理由もよく分からないが、夜空を見上げる白い肌と気の強そうな目だけは印象に残った。今まで周りにいた女は柔かな笑顔を貼り付け、口元を扇子で隠し模範的会話しかしないつまらない女ばかりだ。
もう一度話したい。何故かそう思った。
次の日の夕食。僑月は久々に東宮の住む朱閣宮を訪れた。
「ほぅ、それは面白い妃嬪だな」
東宮である峰風が愉快そうに言いながら酒を飲む。普段なら隣で酌をする妃は今夜は娘の寝かしつけをしていない。
「そこで、東宮に相談なんですが」
「なんだ?」
「女性と親しくするには、どうしたら良いのですか?」
ぶっっ
東宮が思わず酒を吹き出した。
ゲホゲホッ
しかも咽せ始めた。
はぁと、一息ついた東宮が次はニヤニヤとこちらを見てくる。
「美人か?」
「美人です」
「具体的に」
そう言われても言葉につまる。白く艶のある肌と長いまつ毛、意志の強そうな目……まとめると
「仕舞い込んで誰にも見せたくないような……」
「うん、監禁は犯罪だ」
やれやれ、と言った感じで東宮は僑月を見る。
帝はこの数年下級嬪に興味を持つことはない。峰風にも欲しいならいつでも言え、と言っているくらいだ。
だから、本来なら妃嬪に横恋慕なんて打首にされても文句は言えないような話でも、東宮が間に入れば下賜するよう帝に取り計らうことも可能だ。元服していれば、の話だが。
問題は僑月は病で篭りがちだった事、育つ過程で関わる人間が少なかった事、いや元来の性質か、少々偏った感覚を持っている事だ。
「で、まず何からすれば良いでしょう?」
もう一度聞く。
「とりあえず文だろう。知性を感じさせる内容でありながら、甘い言葉を散りばめる。それを何度か交わし次に会う約束をする」
うん、うんと頷く。
「そして何より大事なのは」
「大事なのは?」
「出す前に俺か韋弦に見せろ」
僑月は口を尖らせ東宮を睨んだ。